自殺について相談した真菜のSNS上のやりとり(一部加工しています)
家庭での虐待が原因で、3回にわたって児童相談所に一時保護された山岸真菜(仮名)。 なぜ彼女はそのまま施設で保護されることなく、家庭に戻されたのか。
中学1年で最初に一時保護された真菜は、自ら施設を出て家に帰ることを決断した。 家庭での暴力は明らかに度を過ぎていた。だが、12歳の少女にしてみれば、苦労して入学した名門校をたった数ヵ月で辞め、刑務所のような施設で自由を奪われて暮らすことが受け入れがたかったのだ。 自宅に戻った真菜は、自分自身を殴って傷つけたり、自殺を試みたりするようになった。虐待による自己否定感が高まり、生きていくこと自体が嫌になったのだ。建物から飛び降りる寸前までいったこともあれば、市販のヘリウムガスを吸って自殺未遂をしたこともあった。
◆「私を買ってくれる相手を探して」
中学2年からは、携帯電話をつかって売春をはじめるようになった。ツイッターでハッシュタグを入れて「死にたい」とか「家にいたくない」と書き込むと、それを見た男たちが一斉にダイレクトメールを送ってくる。優しい言葉をかけ、肉体関係を迫ってくるのだ。彼女はそうした男性と1回につき1万円で売春した。 真菜は言う。 「家にいたくなかったんです。でも、中学生だからどうしようもできない。それで私を買ってくれる相手を探して、ホテルに泊まらせてもらったりしました。それ以外でも、なんだかいろんなことが嫌になって休日の昼間とか、放課後とかにやったこともありました」 虐待を受けている少女は、愛情飢餓の中で異性を求めたり、自暴自棄になって自分を傷つけたりすることがある。それが性非行として表れるのだ。 児童相談所による2回目の一時保護は、それから3年後の高校1年の時だった。真夜中に父親から家を追い出され、彼女は夜の街を彷徨った。翌日、行く当てもなく、彼女は追い出された格好のまま学校へ行って事情を話したところ、再び児童相談所に保護されることになったのである。 彼女は一時保護所に2週間いた後、自立支援施設に4ヵ月弱住まわされた。そこは一軒家であり、5人の保護された少女が住んでいたが、1回目と同様に学校に通うことは認められず、送られてくるプリントを解くだけの日々だった。 真菜は言う。 「自立支援施設は外出禁止だったので4ヵ月くらい監禁状態でした。つらかったのは、1日3時間くらい施設の掃除をさせられることですね。午前はほぼすべて掃除で終わっちゃう。その後、学校から送られたプリントで勉強するんですが、自主学習なのでぜんぜんわかりません。なんで私が悪くないのに掃除ばかりさせられ、勉強までついていけなくなっちゃうんだろうって思うとつらかったです」
進学校で学んでいた彼女にとって、4ヵ月も授業を受けられず、勉強が遅れることは受け入れがたいことだった。
そしてここでもケースワーカーから1回目の保護と同じことを言われる。施設で暮らす代わりに私立校を中退して転校するか、父親のいる家にもどって今の学校に通いつづけるかの二者択一だ。父親の暴力は耐えがたいけど、高校を辞めて不自由な施設で暮らすことは受け入れられなかった。 「家に戻ります」 彼女は再び家に帰ることにした。 3度目の一時保護は、それからわずか半年後だった。この時も同じように父親の不条理な逆鱗に触れ、寝巻のまま家を追い出されたのである。
◆寝巻きのまま彷徨い大学生と……
真菜は夜の街を寝巻のまま彷徨い、声をかけてきた大学生の家に泊めてもらった。もちろん、セックスと引き換えである。 翌日、真菜は寝巻のまま高校へ行った。高校の先生は事情を察して児童相談所へ連絡を入れた。 この時は1週間ほど前回と同じ自立支援施設にいたが、結論がわかっていたので、親の怒りが収まるのを待って帰ることにした。もはや保護してもらうこと自体に希望を見いだせなくなっていたのだ。
彼女は言う。 「私の意思としては、すぐにでも家から出て、安全なところで暮らしたかったです。親の虐待から逃れられるのなら、多少不便なことも我慢するつもりでした。けど、学校まで辞めることは受け入れられなかった。それは私が何を言っても変わらない児童相談所のルールなんです。なら、保護してもらっても何も変わらない。そんな気持ちになっていたと思います」 真菜が施設から家に帰っても、家族からはまったく見向きもされなかった。誰一人として「お帰り」も「大丈夫?」も言わず、よそよそしい態度を取るだけなのだ。 これは売春をして数日ぶりに家に帰った時も同じだった。親も姉妹も何かあったと察しているはずなのに、絶対にそれについて言及しようとしない。お互いが距離を置き、無関心を装うことが、家族の形をなんとか保つ方法だったのだろう。 そんな真菜に転機が訪れるのは、3度目の一時保護の後だった。クラスの担任の若い女性教師が真菜に対して親身に向き合ってくれたのだ。その教師はこう言った。 「家の問題には介入することはできない。でも、何でも話を聞くし、できることはする。だからいつでも相談してね」 その教師は「今」を語るのではなく、「未来」を語った。真菜と2人きりになって、大学に入って何をしたいか、いかなる未来を切り開きたいか、どんな社会に暮らしたいか……。前を向かせたのである。 真菜は話をしているうちに次第に家のつらい状況でなく、自分の夢について目を向けるようになった。当時彼女が抱いていた夢。それは日本を飛び出し、外国の大学へ行き、国際協力の仕事に就くことだった。 内戦地帯には自分よりはるかに困難な状況にある難民のような子供たちがいる。それに対して何かをしたい。そんな気持ちが芽生えていたのだ。
◆「『運』で片付けられる社会が許せない」
幸か不幸か、彼女はそれまで売春で稼いだ金を貯め、高校卒業後の自立や留学の資金として用意していた。家から離れ、世界で活躍できるような人間になりたい。そんな未来を見据えた時、真菜の心は楽になったのである。 それから3年後の今、真菜は日本を離れ、ヨーロッパのある国の大学に在籍している。専攻は国際協力だ。 そんな真菜がなぜ、私に自分から連絡をし、自身の体験を語ったのか。
彼女は次のように話す。
「虐待を受けている人はたくさんいます。その中で、私はたまたま良い先生に出会え、家庭から逃れることができました。でも、そうじゃない人の方が圧倒的に多いだろうと思うんです。ずっと家庭から逃げられず、売春や自殺をしている人はたくさんいるはずなんです。そういうのが『運』で片付けられてしまう社会のあり方が許せなかった。それで体験を話したいって思ったんです」
真菜の目には、日本の児童福祉の何が問題だと映っているのか。それを問うと、彼女はこう答えた。
「私は児童相談所がダメだと言うつもりはありません。あの人たちはあの人たちなりのルールの中で一生懸命にやってくれています。ただ、そのルールに問題があると思うんです。 今のルールでは、虐待した親でなく、虐待された子供が施設へ送られて自由を奪われなければなりません。あるいは、私立校へ通っている子供はそこを中退し、公立校へ移らなければなりません。それっておかしくないですか。これ以外にもいろいろあります。 中1の最初の保護の時に、もしこれらのルールが違っていれば、私は父親からの虐待から逃れることができたはずなんです。そんなことで運命が変わってしまうのってどうなんでしょう」
たしかに真菜が最初の一時保護で施設へ行っていたら、自殺未遂をくり返したり、売春をしたりせずに済んでいた可能性はある。 私自身も真菜同様に、児童相談所を批判するつもりはない。私は仕事の関係で個人的にいろんな形でかかわらせてもらっているが、児童相談所の人たちの献身的な仕事への向き合い方には本当に頭が下がるばかりだ。 ただし、彼女が指摘するように、システムの側に問題があるのならば、そこは直していかなければならないだろう。少なくとも真菜の例を見る限り、そのシステムが必ずしも子供の立場に立って作られているとは言い難い。 一時保護のシステムは、本当に子供のためのものになっているのか。そのことをもう一度考え直す必要があるだろう。
*児童養護施設から私立校へ通うことは可能だが、諸条件があり、真菜の場合は当てはまらなかった。
取材・文・撮影:石井光太 77年、東京都生まれ。ノンフィクション作家。国内外の文化、歴史、医療などをテーマに取材、執筆活動を行っている。著書に『絶対貧困』『遺体』『「鬼畜」の家』『43回の殺意』『本当の貧困の話をしよう』『格差と分断の社会地図』『ルポ 誰が国語力を殺すのか』などがある。
感想;
児童相談所は親のためでも、相談所のためでもなく、子どものために会って欲しいです。
子どものためにと努めていおられると信じたいですが、子どものためになっていないケースも多々あるようです。
変えていく勇気がなく、”慣性の法則”に従っていた方が無難との気持ちがあるのかもしれません。