幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

HP”生きテク” 死にたい気持ちから立ち直った人から学ぶ

2013-11-25 00:11:20 | ペット

”生きテク”のホームページご存知ですか?

生きテクとは、自殺サイトなど、死ぬ技術が氾濫するなかで、まったく逆の「生きるための技術」を集めたデータベースサイトです。(HPから引用)http://ikiteku.net/about/ikiteku

とても深刻な辛い状況では、周りの声も入って来ないと言います。その時に、同じ苦しみを体験された人の話は暗闇の中の一条の光となる場合があるようです。カウンセリングでもピア・カウンセリングと言って同じ背景を持つ人同士が対等な立場で話し合うことが助け合いになると言います。

2008年1月以来、”生きテク”を見て自殺を思いとどまった人が2万人と出ています。投稿者に対して多くの人がコメントを寄せられています。

投稿の記事は、下記のタイトルで構成しています。

・最も自分に過酷だった状況

・どんなふうに苦しかったか?

・かいけつ!「これで助かった」という方法は?

・その後。苦境を乗り越えた今、これから何をしたいか?

これを見た後に、”この生きテクを読んで、死ぬのやめよう、もしくは生きてみようと思った”の問いがあり、そう思った人はクリックするようになっています。

これで助かった方法に、やはり周りに支えてくれた人がいました。認知行動療法などもあげられていました。言われた言葉で、自分の考え方、視点が変わったことで生きようと思われたようです。自分の抱えている状況は変わらなくても、死にたいとの気持ちが生きて行こうに変わっています。

言葉との出会いは大きいです。それと人の支えが必要ですね。


退職して2か月が経過しようと  退職して実体験

2013-11-24 02:50:12 | ブログ

9月末に退職してから、2か月が過ぎようとしています。

退職は1年前からいろいろ考えていましたので、頭ではわかっていたことですが、実体験するとやはり企業に勤めているということはいろいろな面でメリットや守られていることがあることを実感しています。幾つかを記載してみます。

お金に関して;

・当然ですが収入が途絶えます。それに追い打ちをかけるのが住民税です。前年度の収入に対してかかりますが、これが思いのほか大きいです。わかっていても請求書が届くと、うーんと。

・健康保険を勤めていた企業の健康保険の2年継続とするか、国民健康保険に加入するか選択しますが、企業の健康保険は保険料の半分を会社が負担してくれていましたが、退職すると全額負担になります。半分はやはりおおきいな。

・勤務中は通勤定期があり、ボランティアや様々な活動の時に役立っていました。それがなくなりました。いちいち切符を買うのが不便なので定期を買いました。定期の便利さが無くなって気が付きました。

居場所/所属に関して:

・会社に居場所がありました。退職すると日中家以外にいる場所がありません。家内からは昼間毎日家にいないでと言われたので、居場所の確保が必要になりました。居場所があることはありがたいです。

・勤務中は初めての方に名刺を出すことで、自分を説明することができました。退職すると名刺がありません。所属先もありません。名乗る時、名前だけです。これが本来の姿なのだと思いますが・・・。これからは何種類かの名刺を自分で創って行くことなのかもしれません。

・退職前は会社の名前が”虎の威を借りる狐”だったのだと思います。できるだけ謙虚な気持ちに努めていましたが、はやり持っていたのだと思います。きっと部長の肩書に対しても、相手の人は気を使われていたのだと思います。

時間に対して;

・時間は自由度が増えました。特に昼間の時間の自由度が増えました。一方、夜は早く帰るようになり、夕食を家で食べるようになりました。

・自由度ができたので、何か新しいことをやりたいと思っています。前にやっていた囲碁は、OBの集まりの囲碁クラブ(1回/月)に参加し始めました。前に本社の囲碁部の部長をしていましたので、懐かしい先輩方々に再会しました。一つだけ新しいことを始めました。ロゴセラピー(「夜と霧」の著者ヴィクトル・フランクルが始めた療法)のセミナー(2日/3か月)に参加しました。

妻の目に対して;

・収入がある時は、妻もある程度諦めがあったかと思います。ところが収入がなくなると、収入もなく・・・。の思いがあるのでしょう。それを感じるのは私の気のせいでしょうか? これまでも洗い物や買い物などをしていましたが、頻度が増えました。笑/涙


森村市左衛門の無欲の生涯 TOTO見学会で知る

2013-11-23 03:23:54 | ブログ

 TOTOの見学会で、TOTOは森村組から始まったと説明を受けました。TOTOのホームページから、森村市左衛門を知りました。

森村市左衛門の無欲の生涯」の本があるのを知り、図書館で借りて読みました。参考になるとことがありましたので紹介します。

森村の家は商売をやっていて、13歳で丁稚奉公にだされますが、仕事が重い荷物を運ぶ仕事でもあり、3年で身体を壊して家にもどりました。その後、問屋から品物を仕入れて販売していました。その内、横浜で海外の品物を仕入れて江戸で売ることをしました。大名屋敷にも出はいりしました。誠意を持って対応していたので、中津藩に見込まれ、いろいろな品物の仕入れを頼まれます。中津藩出身の福沢諭吉と知り合ったのもそれがきっかけでした。いろいろな商売をして失敗もしますが、日本のものを米国で販売することを弟と一緒にします。それが上手く行きました。日本の陶器なども米国向けにデザインすると良く売れ、そのために日本陶器合名会社を作りました。今のノリタケカンパニーです。日本陶器合名会社から、TOTO、日本ガイシ、日本特殊陶業、INAXが生まれました。

 一緒にやってきた14歳下の弟が45歳で、息子が26歳で亡くなりました。

森村はその時を述懐しています。 

「一時はほとんど茫然として左右の手を失ったような気がした」 

「これは天が自分に向かって若い者に代わって最後まで働けということをお命じになったのであろう。はたしてしからば無用の愁歎に暮れているべき場合でない。また、いたずらに仏事を営むも無益の沙汰である。これを機として精神を奮い起こし、ますます身体を強壮にし、両人の精神を受け継いで大いに奮闘しなければならぬ」 (突き付けられた人生に対してYesと受け容れて意味を見出して生きるかどうか)

 (就職した人が、こんな仕事をするために入ったのではないと辞めて行ったことに対して) 「丁稚小僧のする仕事も、みな実業家に必要な活きた学問の一つであって、みなこれから叩き上げねばならぬものであることを知らなかった。いかに太閤さんが不世出の英雄でも、一足飛びに関白になったのではなく、草履取りから歩一歩叩き上げたように、いかに学校教育はあっても、やはり丁稚小僧のことから稽古をしなければ決して立派なる実業となることはできぬ。実際の経験がなくてただ学才ばかりで初めから実業の経営が立派にできるような人は、それこそ十万に一人くらいのものであろう。この青年はこれを知らなかったのである」 

 

森村はこんな言葉を残している。

「よしややり損じても、また儲けなくても、国家のためになることならば、ドンドンやってみるがよかろう。自己を犠牲としても、国家将来のため、社会人類のために働くという覚悟は、事業を成す秘訣であると私は断言する。いやしくも自分が犠牲となる以上は、少なくとも一つの精神を後世に遺しておかなければならぬ。尾となっても枯れてもよいから、何か一つ凛子ある精神を遺しておけば、その人死すとも同志の人が必ずそれを継いでくれるであろうから、いつかは成功しないことはないのである」

森村は日本女子大創立のための寄付や、その他多くの寄付をし、三輪田学園、高千穂学園への援助、森村学園創立、北里柴三郎の伝染病研究所設立なども福沢諭吉と一緒に応援しました。

 

森村市左衛門は迷った時、それが国家のためになるかを判断基準としたそうです。

 

 


荻野吟子さん 近代化後の日本初の女医

2013-11-22 00:18:36 | ブログ

HNKテレビで、荻野吟子さんを取り上げていました。

渡辺淳一著「花埋み」が、荻野吟子の人生を詳細に記述しています。三田佳子さん主演の舞台「命燃えて」で同じく荻野吟子さんの生涯を演じています。荻野吟子さんは埼玉県妻沼町(今の熊谷市)出身です。埼玉県の3大偉人のお一人です。他の2人は、塙保己一、渋沢栄一です。

荻野吟子さんは、16歳で結婚しますが夫に淋病を移されます。当時は抗生物質もなく、淋病がひどくなると痛みが伴い、妊娠もできなくなります。子供が産めないとのことで嫁ぎ先から離縁され19歳で実家に戻されます。東京の順天堂醫院(今の順天堂)に入院しましたが、医者(当時は男性ばかり)に患部を見せることの恥ずかしさは耐えられないほどの屈辱でした。その時に、女医がいればと強く思い、それで女医を目指しました。

当時、女性が学ぶことはとても大変でした。先ずは皇漢医の井上頼圀に師事しました。その後、東京女子師範学校(今の御茶ノ水女子大)の一期生として24歳で入学しました。首席で卒業し、私立医学校 好寿院に特別に入学を許可され、男子の中、女性一人で学びました。ところが、女性は前例がないとのことで医者の試験を受けることが認められません。荻野吟子さんはいろいろなつてを自らお願いするとともに、古い文献に昔は女性の医者がいた記述を見つけます。ようやく受験が女性にも認められます。医術開業試験を他の女性3人と一緒に試験を受けますが、荻野吟子さん一人が合格しました。34歳になっていました。荻野吟子さんは初の女性医師として女性の治療に力を注ぎます。女性の地位向上にも努めます。

39歳の時に13歳年下の男性と再婚しました。男性は同志社の学生で北海道の原野にクリスチャンの理想郷を創ろうと夢を語り、それを実現しようと北海道に渡ります。荻野吟子さんも東京での仕事を切り上げ、41歳で一緒に北海道に渡ります。

結局その理想郷はとん挫し、夫は同志社に戻り、宣教師として戻って来て北海道で布教活動をしますが、荻野吟子さん54歳の時に夫は亡くなりました。夫の死後も3年間、北海道で医院を開業し女性の教育に力を注ぎます。女性が差別されるのは女性が仕事を持たないからだと説き、女性の教育に努めました。

その後、東京に戻り、養子の娘(姉の子ども)と一緒に暮し62歳で亡くなりました。

荻野吟子さんが北海道に行ったことにはいろいろ言われたようです。東京にいて女性の地位向上に努めていたらもっと活躍できたのではと意見もありました。その中で夫の夢実現に協力する選択をしました。愛される幸せ、愛する幸せを大切にされたのだと思います。

荻野吟子さんは女性が医者になる道を創り、その後多くの女性が医者になって行きました。淋病を移され離縁されたという当時女性の持つ苦悩、病気で男性に患部を見せる屈辱。当時、それができなくて病気をひどくさせた女性が多かったとのことです。女性が医者になる道がないところでの学び。男性でもなかなか受からない試験でした。希望が持てない状況で夢を持ち続け実現させました。

人生は私たちにいろいろなことを突き付けて来ます。それに対して、Yesと言って前に向かって道を歩むかどうか。まさに、荻野吟子さんは過酷な運命に、その過酷な人生にYesと答え歩み続け、荻野吟子さんの人生の意味を見出されたのだと思います。


べてるの家 統合失調症の人の取り組みから学ぶ

2013-11-21 01:17:34 | ブログ

べてるの家をご存知ですか?
統合失調症の方が北海道の浦賀町で共同生活と仕事をしながら、支えあって暮らしています。

統合失調症の方が、幻聴、幻覚、爆発(大声を出したくなったり、走りたくなったりなど)について、

1)自分の場合はどういうときに起きるのか、

2)起きた時にどう対応したらよいか、

3)自分で、そして仲間と一緒に研究し、

4)対処療法を考え実行している取り組みが”当事者研究”です。

上手く行かないとまた研究する。まさにPDCA(Plan-Do-Check-Action)を繰り返して、自分の抱えている症状への対処方法を工夫されていました。
ふしぎなもので、研究を繰り返して行く内にうまい対処療法が分かってくるようです。

幻聴が聞こえる人は幻聴に幻聴さんと名前を付けて、幻聴さんと話をするそうです。最初は言うことを聞いてくれなかった幻聴さんが、何度も話しかけると幻聴さんが「まあよいか」と妥協してくれるようになるそうです。

当事者研究と合わせて、SST(ソーシャル・スキル・トレーニング)も使っているそうです。仕事で対人関係で困っているケースをだし、その時どのように受け答えすればよいかを考え、それをロールプレーで練習してから実際の場面でやってみます。例えば、休暇を取りたい、でも上司は渋い顔になる。その時に、どのように上司に休暇を切り出すかをロールプレーで事前に指導者と一緒に練習してから、本番に臨みます。

べてるの家の当事者研究は、私たち自身が活用して良い方法だと思いました。自分の感情がなかなかコントロールできない時、どうしたらよいか。
追究していくと何か方法が見つかるように思いました。

横浜いのちの電話のホームページの広報誌85号と86号に”べてるの家”の活動が取り上げられています。とても興味深い内容です。

http://www.yind.jp/magazine.html

今日は少し、”杜子春”(芥川龍之介の短編)の気持ちになりました。

この杜子春を思い浮かべることで、気持ちが落ち着きました。

自分の気持ちを上手く扱う方法があると助かりますね。