幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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荻野吟子さん 近代化後の日本初の女医

2013-11-22 00:18:36 | ブログ

HNKテレビで、荻野吟子さんを取り上げていました。

渡辺淳一著「花埋み」が、荻野吟子の人生を詳細に記述しています。三田佳子さん主演の舞台「命燃えて」で同じく荻野吟子さんの生涯を演じています。荻野吟子さんは埼玉県妻沼町(今の熊谷市)出身です。埼玉県の3大偉人のお一人です。他の2人は、塙保己一、渋沢栄一です。

荻野吟子さんは、16歳で結婚しますが夫に淋病を移されます。当時は抗生物質もなく、淋病がひどくなると痛みが伴い、妊娠もできなくなります。子供が産めないとのことで嫁ぎ先から離縁され19歳で実家に戻されます。東京の順天堂醫院(今の順天堂)に入院しましたが、医者(当時は男性ばかり)に患部を見せることの恥ずかしさは耐えられないほどの屈辱でした。その時に、女医がいればと強く思い、それで女医を目指しました。

当時、女性が学ぶことはとても大変でした。先ずは皇漢医の井上頼圀に師事しました。その後、東京女子師範学校(今の御茶ノ水女子大)の一期生として24歳で入学しました。首席で卒業し、私立医学校 好寿院に特別に入学を許可され、男子の中、女性一人で学びました。ところが、女性は前例がないとのことで医者の試験を受けることが認められません。荻野吟子さんはいろいろなつてを自らお願いするとともに、古い文献に昔は女性の医者がいた記述を見つけます。ようやく受験が女性にも認められます。医術開業試験を他の女性3人と一緒に試験を受けますが、荻野吟子さん一人が合格しました。34歳になっていました。荻野吟子さんは初の女性医師として女性の治療に力を注ぎます。女性の地位向上にも努めます。

39歳の時に13歳年下の男性と再婚しました。男性は同志社の学生で北海道の原野にクリスチャンの理想郷を創ろうと夢を語り、それを実現しようと北海道に渡ります。荻野吟子さんも東京での仕事を切り上げ、41歳で一緒に北海道に渡ります。

結局その理想郷はとん挫し、夫は同志社に戻り、宣教師として戻って来て北海道で布教活動をしますが、荻野吟子さん54歳の時に夫は亡くなりました。夫の死後も3年間、北海道で医院を開業し女性の教育に力を注ぎます。女性が差別されるのは女性が仕事を持たないからだと説き、女性の教育に努めました。

その後、東京に戻り、養子の娘(姉の子ども)と一緒に暮し62歳で亡くなりました。

荻野吟子さんが北海道に行ったことにはいろいろ言われたようです。東京にいて女性の地位向上に努めていたらもっと活躍できたのではと意見もありました。その中で夫の夢実現に協力する選択をしました。愛される幸せ、愛する幸せを大切にされたのだと思います。

荻野吟子さんは女性が医者になる道を創り、その後多くの女性が医者になって行きました。淋病を移され離縁されたという当時女性の持つ苦悩、病気で男性に患部を見せる屈辱。当時、それができなくて病気をひどくさせた女性が多かったとのことです。女性が医者になる道がないところでの学び。男性でもなかなか受からない試験でした。希望が持てない状況で夢を持ち続け実現させました。

人生は私たちにいろいろなことを突き付けて来ます。それに対して、Yesと言って前に向かって道を歩むかどうか。まさに、荻野吟子さんは過酷な運命に、その過酷な人生にYesと答え歩み続け、荻野吟子さんの人生の意味を見出されたのだと思います。