フランクルを学ぶ人のために 山田邦男編 より引用
傷ついた癒し人(wounded healer)
「人間はそれぞれが傷を持っている、みんなどこかが病んでいる。病というのは身体であれ心であれ、穏やかでない部分があるということで、その自分の傷や病に気づいて癒された人間、癒しを体験した人間は、本当の意味で、他者に対しての癒し人になれるのではないか」
この考えは、旧約聖書イザヤ書53章から来ているとありました。そこをネットで検索して読みました。 http://blogs.yahoo.co.jp/jusus_christ_no1/30362828.html
「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。・・・」
死ぬような辛さを経験し、その体験談を”生きテク”に掲載し、それを見た人が生きる力を得ることができたら、死ぬような辛さにも意味があったことになります。
辛さに何か意味があるのだと思えると、辛さも耐えることができると、ヴィクトル・フランクル(「夜と霧」の著者)が述べていました。
以下の内容はフランクルの書物の中で紹介されているケースです。「意味による癒し-ロゴセラピー入門-」V・E・フランクル、山田邦男監修より引用
ある年配の開業医がひどい抑鬱のために、私のもとへ相談に来られました。その人は、こよなく愛していた妻を二年前に亡くし、その喪失のショックから立ち上がることができなかったのです。その時、私は彼に何事かを話すのを差し控えて、ただ一つの質問を彼にぶつけました。「もしもですよ、ドクター、あなたが先に死んで、あなたの奥さんがあとに残ったとしたら、どういうことになっていたでしょうか?」。「おお」と彼は言いました。「それは彼女ににとっては恐ろしいことです。どんなに苦しむことでしょう!」。そこで私は答えました。「そうでしょう、ドクター、そういう苦しみを奥様に味わわせないで済んでいるのですよ。この苦しみから奥様を救ったのは、あなたなのです。そしてその代わりに、あなたは今一人で生き、彼女のいないことを悲しまなければならないのです」。彼は一言も言わずに私の手を握り、静かに部屋を出て行きました。苦悩は、それが何らかの意味を、例えば犠牲という意味を見出したその瞬間に、何らかの仕方で苦悩であることをやめるのです。