2001年6月8日、白昼、大阪教育大附属池田小学校に刃物を持った男が乱入し、8人の子どもの命を奪い15人に重軽傷を負わせた。
その8人の一人が本郷優希ちゃんでした。
・お友だちのお母さんが優希に、こんな質問をしたそうです。
「優希ちゃん、もし、無人島にひとつだけ、持っていくとしたら何にする?」
すると、優希は、
「パパにしようかな? ママにしようかな? 妹にしようかな?」
とさんざん悩んでいましたが、やがて、パッと顔を輝かせて、
「家族!」
と答えたのだそうです。
・みんなで帰る途中のこと、坂道でリヤカーを引いているおじいさんが、何度も何度も休憩しながら登っているのに出会いました。優希と奈々ちゃんがリヤカーの横で立ち止まって、どうするのかと思っていると、何やら言葉を交わしたふたりは、うなずきあったかと思うと、おじいさんのところへ走り寄り、リヤカーを後ろから懸命に押しはじめたのです。
そばで見ていた私も、すぐに手伝いに駆けつけました。
・現場検証の結果、教室内で刺された優希が、致命傷を負いながら、懸命に廊下まで逃れ出て、後者の出口に向かって必死に歩いている途中で、ついに力尽きて倒れたことが判明した。
・学校を訪れることは、苦痛を伴う行為でもあります。最初のうちは、廊下に立つとどうしても、「助けて」と必死で教室から逃げ出してくる優希の姿が思い浮かび、それがつらくて、もうここを訪れるのをやめてしまおうかと思ったこともたびたびでした。けれど、日がたつと、また、無性にあの場所にいる優希に会いたくなって学校に駆けつけてしまうのです。
・犯人が優希を襲ったその場所には、彼女が折りかけていた折り紙一枚落ちていました。
そのとき、優希が折っていたのが「ぐるぐるごま」だということもわかりました。
・彼女が事件の数日前に借りだした『おばけのソッチラーメンをどうぞ』と「わたしのママは魔女シリーズ」の中の『まほうにかかったパパとママ―』、『ママにはないしょのラブレター!!』の三冊でした。・・・。
返却した本のことが心の奥にトゲのようにひっかかったままでした。あの本を手元に置くことはできないのだろうか? ・・・。
同じ本を私が購入し、優希が借りていた本と交換するということで、話がまとまりました。
三冊の本が我が家に戻ってくると、子ども部屋の優希の机の上に、あの日、見つけたときのように置き、私はそこに座って本を開きました。
・ある日、マスコミの方から「そろそろ、半年になりますね」と言われたときは、心底、愕然としました。自分の中の時を止めてしまっていた私には、この六か月が、わずか数日間にしか感じられなかったからです。実際、この間、私は季節の変化にまったく無自覚でした。暑さや寒さの感覚までが麻痺してしまい、いつ夏が終わり、冬が訪れたかも気づかないまま、ひたすら時間をやり過ごしていたのです。
・事件直後から、私を長い間苦しめてきたものに、フラッシュバック現象があります。あのとき、校庭で見た子どもたちのおびえきった表情や、騒然とした学校の情景が、日に何度となく脳裏を横切り、そのたびに、激しい恐怖と不安に襲われてしまうのでした。
・以来、私は包丁に触ることはおろか、見ることすらできなくなってしまいました。
・事件後、学校が組織したメンタルサポートチームから、臨床心理士の先生と精神科医の先生が、ケアのため月に1~2回、私たち夫婦のカウンセリングをしてくださるようになったのです。
・カウンセリングを続けて一年ほど過ぎた頃でした。少しずつ落ち着きを取り戻していくにつれて、先生に「話をする」ことが逆につらくなりはじめ、抵抗を覚えるようになってきたのです。
・私たち、犯罪被害者の遺族は、遺族という立場こそ同じですが、精神的な回復の過程、犯人への怒り、周囲との違和感など、ここが抱えている苦悩は、みなそれぞれです。
・もし、あなたので周囲に、犯罪や事故で家族を失った人たちがいて、どう声をかけていいか迷っているとしたら、まず、個人個人の苦しみを理解することから始めてください。その人の痛みは、その本人でなければわからないということを、理解したうえで声をかけてください。いえ、黙って寄り添ってくださればいいのです。それが、私たち遺族へのいちばんの慰めになるのです。
・「この写真の場所に行ってみたくなった。もう一度、優希といっしょに行った場所に俺たちで出かけてみようよ」
それから、私たちは、折を見て、優希といっしょに出かけたことのある場所を訪れることにしました。
・4人の訪問者
犯罪被害者の会「あすの会」代表幹事で、97年に東京都小金井市で奥様を殺害された弁護士の岡村勲先生、95年に大阪市で奥様が包丁で刺され重傷を負った林良平さん、97年に神戸市須磨区児童連続殺傷事件で亡くなった土師淳くんのお父様、99年に京都日野小学校事件で犠牲になった中村俊希くんのお父様の4人です。みなさんは二日間かけて、八遺族の家をすべて訪問されました。
・岡村弁護士の、
「頑張らなくていいんですよ。これ以上、頑張れるはずがありませんよ」
という一言が、いまだに忘れられません。
・岡村弁護士は、
「いまは、まだ悲しみのどん底で、とてもそんな気持ちになれないかもしれませんが、おふたりの悲しみやくやしさ、憤りを明るい社会作りに生かしていきたいという気持ちになられたときは、いつでもご連絡ください。いっしょに協力していきたいと思います」
とおっしゃいました。私たちは口々に、
「優希の死を無駄にしたくありません」
と答え、先生たちの手を強く握りました。
・八遺族みんなで相談の上、犯人への厳罰と安全な学校作りを願う嘆願書の署名活動を、始めることになったのです。・・・。「八人の天使の会」というホームページを立ち上げ、署名運動の意図をネット上で伝え、活動の経緯を報告していくことにしました。
・米コロンバイン高校との交流
1999年4月20日、アメリカのコロラド州コロンバイン高校に押し入った二人組の男が銃を乱射、教師、生徒ら13人を射殺したうえ、自らも命を絶ったという衝撃的なニュースは、銃社会アメリカでも際立った悲惨な出来事で、日本でも大々的に報道されました。
「たとえ、生きたくないと思っても、あなたは生きていかなくてはなりません。しばらくは、一日一日をただ、こなしていくだけになるかもしれません。でも、それでいいのです。生きることが大切なのです」
・『死後の真実』エリザベス。キューブラ―・ロス女史著
「死後の命は永遠の命である」と述べています。
・八家族のひとりから紹介していただいた臨床心理士の先生に相談し、臨床心理士を志している学生さんに、週に一度わが家に来てもらい、下の娘と遊んでもらうことにしました。
この選択は正しかったと思います。12月からふたりの女子学生の方が、ボランティアとしてわが家を訪れるようになり、下の娘は彼女たちに姉の面影をダブらせたのか、すぐに心を許すようになったのです。
・この本で私が伝えたかったのは、生きることの大切さでした。犯罪被害者の家族は、最愛の家族を失うことで、自らの「生きる意味」を喪失しかかりながら、なお、苦しみと悲しみを抱いたまま、残された家族のために生きていくのです。そして、事件の前とは違った自分自身の「生き方」を模索していくのです。
それは、本当に困難でつらいことです。私の場合は、事件後、いったんは絶望の淵に立たされながら、大勢の方たちと交流する機会を得、たくさんの善意に支えられて、あらためて生きていることの大切さを確認することができました。それが、この事件から私が得た最大の宝物であり、そのこともぜひ伝えなくてはいけないと思ったのです。
感想;
突然、子どもを犯罪で殺されてしまいました。
その苦しみ、悲しみ、それでも生きて行かなければなりません。
明日への言葉
本郷由美子(精神対話士)
・娘の思いを支えに生きる
http://asuhenokotoba.blogspot.com/2016/12/blog-post_10.html
グリーフケアライブラリー「ひこばえ」さんを訪ねました。
https://www.ehonten.tokyo/activities/9129
その8人の一人が本郷優希ちゃんでした。
・お友だちのお母さんが優希に、こんな質問をしたそうです。
「優希ちゃん、もし、無人島にひとつだけ、持っていくとしたら何にする?」
すると、優希は、
「パパにしようかな? ママにしようかな? 妹にしようかな?」
とさんざん悩んでいましたが、やがて、パッと顔を輝かせて、
「家族!」
と答えたのだそうです。
・みんなで帰る途中のこと、坂道でリヤカーを引いているおじいさんが、何度も何度も休憩しながら登っているのに出会いました。優希と奈々ちゃんがリヤカーの横で立ち止まって、どうするのかと思っていると、何やら言葉を交わしたふたりは、うなずきあったかと思うと、おじいさんのところへ走り寄り、リヤカーを後ろから懸命に押しはじめたのです。
そばで見ていた私も、すぐに手伝いに駆けつけました。
・現場検証の結果、教室内で刺された優希が、致命傷を負いながら、懸命に廊下まで逃れ出て、後者の出口に向かって必死に歩いている途中で、ついに力尽きて倒れたことが判明した。
・学校を訪れることは、苦痛を伴う行為でもあります。最初のうちは、廊下に立つとどうしても、「助けて」と必死で教室から逃げ出してくる優希の姿が思い浮かび、それがつらくて、もうここを訪れるのをやめてしまおうかと思ったこともたびたびでした。けれど、日がたつと、また、無性にあの場所にいる優希に会いたくなって学校に駆けつけてしまうのです。
・犯人が優希を襲ったその場所には、彼女が折りかけていた折り紙一枚落ちていました。
そのとき、優希が折っていたのが「ぐるぐるごま」だということもわかりました。
・彼女が事件の数日前に借りだした『おばけのソッチラーメンをどうぞ』と「わたしのママは魔女シリーズ」の中の『まほうにかかったパパとママ―』、『ママにはないしょのラブレター!!』の三冊でした。・・・。
返却した本のことが心の奥にトゲのようにひっかかったままでした。あの本を手元に置くことはできないのだろうか? ・・・。
同じ本を私が購入し、優希が借りていた本と交換するということで、話がまとまりました。
三冊の本が我が家に戻ってくると、子ども部屋の優希の机の上に、あの日、見つけたときのように置き、私はそこに座って本を開きました。
・ある日、マスコミの方から「そろそろ、半年になりますね」と言われたときは、心底、愕然としました。自分の中の時を止めてしまっていた私には、この六か月が、わずか数日間にしか感じられなかったからです。実際、この間、私は季節の変化にまったく無自覚でした。暑さや寒さの感覚までが麻痺してしまい、いつ夏が終わり、冬が訪れたかも気づかないまま、ひたすら時間をやり過ごしていたのです。
・事件直後から、私を長い間苦しめてきたものに、フラッシュバック現象があります。あのとき、校庭で見た子どもたちのおびえきった表情や、騒然とした学校の情景が、日に何度となく脳裏を横切り、そのたびに、激しい恐怖と不安に襲われてしまうのでした。
・以来、私は包丁に触ることはおろか、見ることすらできなくなってしまいました。
・事件後、学校が組織したメンタルサポートチームから、臨床心理士の先生と精神科医の先生が、ケアのため月に1~2回、私たち夫婦のカウンセリングをしてくださるようになったのです。
・カウンセリングを続けて一年ほど過ぎた頃でした。少しずつ落ち着きを取り戻していくにつれて、先生に「話をする」ことが逆につらくなりはじめ、抵抗を覚えるようになってきたのです。
・私たち、犯罪被害者の遺族は、遺族という立場こそ同じですが、精神的な回復の過程、犯人への怒り、周囲との違和感など、ここが抱えている苦悩は、みなそれぞれです。
・もし、あなたので周囲に、犯罪や事故で家族を失った人たちがいて、どう声をかけていいか迷っているとしたら、まず、個人個人の苦しみを理解することから始めてください。その人の痛みは、その本人でなければわからないということを、理解したうえで声をかけてください。いえ、黙って寄り添ってくださればいいのです。それが、私たち遺族へのいちばんの慰めになるのです。
・「この写真の場所に行ってみたくなった。もう一度、優希といっしょに行った場所に俺たちで出かけてみようよ」
それから、私たちは、折を見て、優希といっしょに出かけたことのある場所を訪れることにしました。
・4人の訪問者
犯罪被害者の会「あすの会」代表幹事で、97年に東京都小金井市で奥様を殺害された弁護士の岡村勲先生、95年に大阪市で奥様が包丁で刺され重傷を負った林良平さん、97年に神戸市須磨区児童連続殺傷事件で亡くなった土師淳くんのお父様、99年に京都日野小学校事件で犠牲になった中村俊希くんのお父様の4人です。みなさんは二日間かけて、八遺族の家をすべて訪問されました。
・岡村弁護士の、
「頑張らなくていいんですよ。これ以上、頑張れるはずがありませんよ」
という一言が、いまだに忘れられません。
・岡村弁護士は、
「いまは、まだ悲しみのどん底で、とてもそんな気持ちになれないかもしれませんが、おふたりの悲しみやくやしさ、憤りを明るい社会作りに生かしていきたいという気持ちになられたときは、いつでもご連絡ください。いっしょに協力していきたいと思います」
とおっしゃいました。私たちは口々に、
「優希の死を無駄にしたくありません」
と答え、先生たちの手を強く握りました。
・八遺族みんなで相談の上、犯人への厳罰と安全な学校作りを願う嘆願書の署名活動を、始めることになったのです。・・・。「八人の天使の会」というホームページを立ち上げ、署名運動の意図をネット上で伝え、活動の経緯を報告していくことにしました。
・米コロンバイン高校との交流
1999年4月20日、アメリカのコロラド州コロンバイン高校に押し入った二人組の男が銃を乱射、教師、生徒ら13人を射殺したうえ、自らも命を絶ったという衝撃的なニュースは、銃社会アメリカでも際立った悲惨な出来事で、日本でも大々的に報道されました。
「たとえ、生きたくないと思っても、あなたは生きていかなくてはなりません。しばらくは、一日一日をただ、こなしていくだけになるかもしれません。でも、それでいいのです。生きることが大切なのです」
・『死後の真実』エリザベス。キューブラ―・ロス女史著
「死後の命は永遠の命である」と述べています。
・八家族のひとりから紹介していただいた臨床心理士の先生に相談し、臨床心理士を志している学生さんに、週に一度わが家に来てもらい、下の娘と遊んでもらうことにしました。
この選択は正しかったと思います。12月からふたりの女子学生の方が、ボランティアとしてわが家を訪れるようになり、下の娘は彼女たちに姉の面影をダブらせたのか、すぐに心を許すようになったのです。
・この本で私が伝えたかったのは、生きることの大切さでした。犯罪被害者の家族は、最愛の家族を失うことで、自らの「生きる意味」を喪失しかかりながら、なお、苦しみと悲しみを抱いたまま、残された家族のために生きていくのです。そして、事件の前とは違った自分自身の「生き方」を模索していくのです。
それは、本当に困難でつらいことです。私の場合は、事件後、いったんは絶望の淵に立たされながら、大勢の方たちと交流する機会を得、たくさんの善意に支えられて、あらためて生きていることの大切さを確認することができました。それが、この事件から私が得た最大の宝物であり、そのこともぜひ伝えなくてはいけないと思ったのです。
感想;
突然、子どもを犯罪で殺されてしまいました。
その苦しみ、悲しみ、それでも生きて行かなければなりません。
明日への言葉
本郷由美子(精神対話士)
・娘の思いを支えに生きる
http://asuhenokotoba.blogspot.com/2016/12/blog-post_10.html
グリーフケアライブラリー「ひこばえ」さんを訪ねました。
https://www.ehonten.tokyo/activities/9129