1991年から展示会を行っている。
絵の話をしたいと思います。
パネルが経年劣化しています。
解説の中に子どもたちが映っているのを展示しています。
今世界では、飢えや砲撃で、病気でも治療を受けられない子など、そういった子どもたちと同じように、テレジン収容所の子どもたちを紹介したいと思います。
1989年2月、1989年はベルリンの壁がなくなった年、娘の卒業旅行を一緒に東欧を巡りました。
二人で行くから、やはり一人では行けない国に行こうと。
ビザをとらないといけない国は東欧だと。
面白かった、大変だった。ポーランドに行こう。
だったらアウシュビッツに行こうと。
今は観光地になっているが、多くの人に見てもらいたい。
当時はだれもいない。でも誰かの声が聞こえてくる感じ。
犠牲者が残したもの。靴が山のように。子どもたちの靴も。
それに違和感を。荷物は一人ひとりの持ち物。
2日後にプラハに入って、アウシュビッツで気持ちが落ち込んでいました。
偶然、子どもの絵が展示されていました。
英語の解説はありませんでした。
わからないけど、子どもの名前が書いてありました。
1930年何月、1940年何月、その下に書いてあった言葉。
当時地図にアウシュビッツの名前はなくオシフィエンチム と呼ばれていた場所。
ユダヤ人以外の障害者やジプシーも殺戮の対象になりました。
絶滅収容所とも呼ばれています。
プラハの小さな建物の展示で、その年に生まれた子どもがアウシュビッツで殺されたんだなと分かりました。
明るく生き生きした絵が多かった。
殺されるのになぜ、明るく、普通の絵だったのだろう。
そして名前が書いてあったのが素晴らしいと思いました。
でもなぜ名前があるのだろう?
その展示がチェコ語、ロシア語で、私が知っている日本語、英語、フランス語が通じない。娘が通じない時は日本語が一番良い。なぜなら感情がこもるのでと娘が言うので、日本語で話したら、係の人にトイレに連れて行かれました。
その建物を出て道を歩いている人に英語通じますかと尋ねたら、そのところの展示なら、あの建物の事務所に行けばよいと教えてくれました。
そこに古いパンフレットをくれて、それがフランス語だっったのでホテルに戻って読みました。当時私は3つくらいの収容所しかしらなかった。
テレジン収容所を知らなかった。
中継所として使われていた。
文化人が多く収容されていた。
ドイツはテレジン強制収容所は優遇していて、テレジンを使って国際社会にPRしていた関係もあり、文化活動を少し許していた。
子どもたちだけが収容され、そこで大人が子どもを教えていた。
絵も描かせていた。
子どもたちは15,000人いたが解放されたとき、100人が生き残った。しかし、絵は4,000枚残っていた。それをパンフレットで知りました。
こどもたちの絵が暗かったり、寂しかったら、私はこころが動かなかったと思う。
生き生きした明るい絵が多かった。
テレジンでは子どもたちは勉強した。
絵を描くことで子どもたちの心をよみがえらせていた。
その絵を日本で展示しようと友だちに話したら、「良いのでは」というだけで、積極的にやろうという人はいなかった。
その絵を日本の子どもたちに見せたいと思った。
当時過程調停の仕事をしていた。
離婚が多いが、子どもたちに付き添って裁判官と話をすることもある。
鑑別所に子どもの絵が掲示してあるけど、その絵には心が動かない。
子どもに、「少年院に行かなくて良い」良かったねと言っても、子どもは良いと思わない。「学校に戻れるのよ」と言っても、別にと。
そこの絵はお手本通りの絵だった。
しかしテレジンの絵は子どもたちが生き生きと描いていた。
この絵を日本で見せたいなと思った。
ちゃんと大人がやれば、子どもたちは描けるのだと。
1年経過してもやはりやりたいと思った。
チェコスロバキヤの大使館を突然訪問した。
でも言葉が通じるのだろうかと不安になった。
受付は日本人。
一等書記官の方は日本語が上手いので良かったが、写真のことは知らなかった。
その人はプラハに生まれ育ったけど「知りません」と言われた。
彼はとても誠実な方で、本国に問い合わせしてくれた。
チェコスロバキヤは当時ソ連の支配下で、ホロコーストを教えていたなかった。
その方は、日本に3年おられた。日本で行った展覧会に来てくれた。
帰るとき、「私は国の歴史をあなたのおかげで知りました」と言ってくれた。
そのおかげで1991年から展示会を行えるようになった。
ユダヤ人コミュニティーに子どもたちの絵は保存されていた。
その団体からもお礼を言われた。
絵を借りた。
実物の絵が来ると思っていた。
絵は傷んでいて動かすことができません。
絵の写真を撮って、そのフィルムを差し上げます。
その永久使用権をあなたにあげますと言われた。
大使館を通して生き残りの人の内6家族と連絡を取ることが出来た。
テレジンに移る時は1家族、最大50kgの荷物だった。
学用品を持って行って良いよと両親は行ってくれたそうだ。
フリードルさんは荷物に、多くの紙や絵の具、ひょっとして子どもたちと会うかは分からなかったがそのときのために。
テレジン収容所では皆が協力してくれた。
封筒、包み紙、ダンボールなど。
それに絵を描いていたことが分かるように思って、何度も何度もお願いした。
多額の保険をかけることを要求された。1,000万円の保険。スティールのケースに。
封印がされいる。絵のケースが鎖を腕に付けてと言われたけど、それだけは許してもらって、6点の原画と150枚のフィルムを日本に持って帰れた。
何人かの友人たちが手伝ってくれた。
同級生の男性、マスコミに勤めている、厳しいことを言われた。
日本は世界の名画が見られる。原画は6点、人は来ないよと。
でも多くの人が見に来てくれた。
子どもを連れてくる人も多かった。
最初は熊谷市の八木橋デパートだった。
その次の展示が大宮のそごう。
受付にいたら、子どもが来て、「おやつあげるよ」と。
絵の中にアーチがあって、「幸せの国」に入れる。1コルク。
籠を持った天使。豚やハリネズミにもフォークが突き刺さっている。
その子に飴をあげると。この子に見てもらっただけで良かった思った。
子どもたちは子どもの気持ちで分かってくれる。
自分たちは今幸せでもそうでない子どもたちがいたことを、明るい絵から感じ取ってもらう。
子どもたちは絵だけでなく、詩を書いていたこともわかった。
大使館の方が英語に訳してくれて、そして日本語に訳した。
絵の展示を私は1年で止めるとつもりだった。
新聞に私の名前とか住所が載って要望が来て、私から知り合いに頼んだりもして、23か所、札幌から鹿児島での展示ができた。
8万2千人が泣いたとの新聞記事が載ると、私たちも見たいと全国から言われた。
それから30年以上続いている。
私は今は80代後半、50代後半で初めて、今も続いている。
家を描いた絵が多い。4,000枚見ていない。300枚の絵は見ている。
300枚の中で、家を描いた絵が多い。次に花と蝶々、街の風景。
子どもたちは家に帰りたかった。
この道を走って帰ったら家に帰れる。その思いが強くあったと思う。
私の子どもも学校で家の絵を描いた。
当時団地に住んでいたけど、家の絵は資格ではなく、三角屋根の絵を描いていた。
テレジンの子どもたちの絵は、家に続く道を描いていた。
後になって思うのは、なんか声がする。聞かないといけない。
家に続く道があるのは子どもたちの願望が描かれているのだと。
絵を教えた先生の存在が大きかった。
フリードル先生は、子どもたちに絵を描いたら、「名前を書きなさい」と言って書かせていた。
収容所では、番号で呼ばれていた。
番号札はダンボールに番号が書いてある。
この番号がわからないと食事も摂れない。
フリードル先生は、名前を書きなさいと。
名前のない絵は未完成の絵。
絵を描く時間は短く、一回で描き終わらない。
次の時間に描こうと思って、毎日点呼があり、体が弱っていると東へ(アウシュビッツ)送られた。
病院の風景、女の子。この絵を頼んだ頼んで日本に持ってきた。
絵の女の子の髪の毛は毛糸で、もう一人は自分の髪の毛で切って貼っていた。
この絵は完成していない。医者の頭は鉛筆で髪を描いている。
名前もなく、この絵を描いた女の子は亡くなったのだなとと思った。
多くの人が触りたくなる。これぽっちの髪の毛しか残せなかった。
今はパネルなので、触って大丈夫です。
日本での展示を進めていた。
1990年、この絵が初めて世界に出る予定だった。
「アウシュビッツで消えた子どもたちの絵画展」を開催する会を作ってやっている間に、準備がかかって、イタリアに先を越された。
プラハのシナゴークに犠牲になった人の名前が書いてある。
600万人犠牲者の正確な数字はわからない。
ナチスが調べた当時のユダヤ人は1,100万人いた。生き残った人を差し引いた人数が推定、600万~650万人が犠牲になった。
チェコスロバキヤに住んでいたユダヤ人の名前。それだけ名前を大切にしようとしている。
アウシュヴィッツが解放された日を記念日にしている。
一人ひとりに顔があった、名前があった。それを大事にしていると。
生き残った人の話、100人生き残っていたと本に書いてあったので、誰か紹介して欲しいと頼んだけど、それは難しいとの返事。
テレジン収容所が出来て50年、1991年のアニバーサリーを行い、ユダヤ人コミュニティが調べて分かったのは、消息が分かったのは23人だけだった。
その人にお手紙を英語で書いた。
そこで過ごした人がどうだったかと、何度も手紙を出したけど、返事が来ない。
またお断りの返事が。
イスラエルにはテレジンに行った人の集まり、キブツがあるから行ってみたら良いと言われて、行った。
ナチスは自分たちの証拠を燃やした。
しかし、紙が残っていたので見たら、それが子どもたちの絵だった。
キブツでその方が待っていてくれた。
その方はが女流画家を尊敬して、手伝っていた。
フリードル先生の教えを、ビリー・クロアさんから聞いたら。
ビリーさんが、この近くに子どもで生き残った人が住んでいるよと紹介してくれた。フロントから、とてもステキな女性が立っていて、「私が生き残りよ」と。
リタ―・クリアさんの紹介で1929年生まれ。アンネフランクも同じ年齢。
これ以上の年でないと当時の記憶を覚えていない。
私は1937年生まれ。
市ヶ谷で焼夷弾落ちて焼き出されている。
記憶が断片的。姉は記憶している。
ちょうど記憶を語れる年齢かなと。
ビター・クラウさん、チェコで講演を頼まれて、チェコにも家がある。
私より元気でイスラエルとプラハを往復している。
日本に招いたことがある。彼女はテレジン⇒アウシュヴィッツ⇒ベルゲン、手に番号が刺青されている。
どうしてもマスコミがインタビュー、その刺青を写真を取りたいという。
それを彼女に謝ったら、あなたは、「ごめんなさい」と謝る必要はない。
私は語ることが求められている。
だからあなたは「ありがとう」と言えばよい。
私は生き残っているのだから、語るのがキムなのよ。
誰だって辛いことを語りたくなかったのだから。
私は今度私がたくさんの方に語りたい。
私は話を聞いてしまったのだから。
大人がきちんと子どもに語ればどんな状況でも、子どもたちは普通の絵を描ける。
私はまだ十分語っていないと思う。
もう一人元気な生き残りの方はヒルガさんは外には出られないけど。メールや電話はできる。
6人の内3人は亡くなっている。もう一人の方は消息がわからない。
子どもたちの絵には、花と蝶々、たくさんの蝶々。
蝶々は花の咲くところへ飛んで行ける。
蝶々だったら。
紙芝居をライアさんを描いた紙芝居。
ライアさんからいただいたブローチも蝶々。
「伝える努力」
こんな話は聞くのは嫌だと言う人に、現実にあったのよと言っていまし。
事実を知る努力
「知る勇気、伝える努力」
「テレジンからの子どもたちの贈り物」(紙芝居)
感想;
絵に描かれた子どもの生まれた日が絵に書いてありました。
そしてアウシュヴィッツに送られ年月が書いてありました。
絵のほとんどの子どもは1~2年以内にアウシュヴィッツに送られていました。
アウシュヴィッツでは明確な年齢でのガス室送りの年齢は決まっていなかったようですが、だいたい14歳が分かれ目だったようです。
絵に書かれていた子どもの年齢はほとんど皆14歳以下でした。
絵画のフリードル先生もアウシュヴィッツに送られたそうです。
午前中、野村路子さんのお話を伺い、その後、展示を見ました。
ネットで調べると、フリードル先生はチェコを去るパスポートを友だちが手配してくれましたが、子どもたちと一緒に残ると言ってアウシュヴィッツに送られました。
蝶の絵が多かったとのこと。アウシュヴィッツのガス室に蝶の絵が描いてあったそうです。
手から新しく飛び立つ
蝶は共通しているように思いました。