『ふしぎの国のアリス』は基本ナンセンスな作品だが、作品はさまざまな読まれ方をされていい。
『少女のアイデンティティ』をテーマとして読み取ることもできる。
アリスの体は大きくなったり小さくなったりする。
昨日まで暗唱できていた詩を間違って読んでしまったりもする。
アリスは自分の中で起きているこの変化は何なんだろう? と考える。
白ウサギには「メアリー・ジェーン、公爵夫人の扇と手袋を持って来い!」と命令される。
メアリー・ジェーンはメイドらしい。
アリスは、じぶんはメイドじゃないし、メアリー・ジェーンでもないのに、と思う。
きのこを食べた時は、首がヒョロヒョロ伸びて、木の上の鳩の巣に到達してしまう。
そこで鳩に「あなたは巣の卵を食べに来たヘビね?」と言われる。
アリスの首がヒョロヒョロと長いからだ。
アリスが「朝食に卵を食べる」と言うと、鳩に「やっぱりあなたはヘビね」と言われる。
「メアリー・ジェーン」「メイド」「ヘビ」──
このようにアリスのアイデンティティは揺らいでいく。
「わたしはいったい者なのかしら?」と思ってしまう。
これはサルトルの実存主義なんですね。
「わたしは会社員である」「夫である」「鉄道マニアである」「中年男である」
といった具合に、人は「わたしは○○である」という形で自分というものを形作っている。
でも、これは簡単に変わってしまうもの。
会社を辞めれば会社員でなくなってしまうし、離婚すれば夫でなくなってしまうし、鉄道マニアをやめれば鉄道マニアでなくなってしまうし、年をとれば中年男でなくなってしまう。
このように自分というものは実に頼りないものなのである。
「○○である」をすべて剥ぎ取ってしまえば、人は何者でもなくなってしまう。
つまり「無」だ。
このように『ふしぎの国のアリス』は哲学的・心理学的作品でもある。
作者ルイス・キャロルの本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジスン。
オクスフォード大学の数学者・論理学者である。
少女趣味で、少女の裸の写真を何枚も撮った人でもある。
やはり、こういう特異な作品を書く人は変人が多い。
『ふしぎの国のアリス』は今後もさまざまな読まれ方をされて、人間というものを深く掘り下げていくだろう。
『少女のアイデンティティ』をテーマとして読み取ることもできる。
アリスの体は大きくなったり小さくなったりする。
昨日まで暗唱できていた詩を間違って読んでしまったりもする。
アリスは自分の中で起きているこの変化は何なんだろう? と考える。
白ウサギには「メアリー・ジェーン、公爵夫人の扇と手袋を持って来い!」と命令される。
メアリー・ジェーンはメイドらしい。
アリスは、じぶんはメイドじゃないし、メアリー・ジェーンでもないのに、と思う。
きのこを食べた時は、首がヒョロヒョロ伸びて、木の上の鳩の巣に到達してしまう。
そこで鳩に「あなたは巣の卵を食べに来たヘビね?」と言われる。
アリスの首がヒョロヒョロと長いからだ。
アリスが「朝食に卵を食べる」と言うと、鳩に「やっぱりあなたはヘビね」と言われる。
「メアリー・ジェーン」「メイド」「ヘビ」──
このようにアリスのアイデンティティは揺らいでいく。
「わたしはいったい者なのかしら?」と思ってしまう。
これはサルトルの実存主義なんですね。
「わたしは会社員である」「夫である」「鉄道マニアである」「中年男である」
といった具合に、人は「わたしは○○である」という形で自分というものを形作っている。
でも、これは簡単に変わってしまうもの。
会社を辞めれば会社員でなくなってしまうし、離婚すれば夫でなくなってしまうし、鉄道マニアをやめれば鉄道マニアでなくなってしまうし、年をとれば中年男でなくなってしまう。
このように自分というものは実に頼りないものなのである。
「○○である」をすべて剥ぎ取ってしまえば、人は何者でもなくなってしまう。
つまり「無」だ。
このように『ふしぎの国のアリス』は哲学的・心理学的作品でもある。
作者ルイス・キャロルの本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジスン。
オクスフォード大学の数学者・論理学者である。
少女趣味で、少女の裸の写真を何枚も撮った人でもある。
やはり、こういう特異な作品を書く人は変人が多い。
『ふしぎの国のアリス』は今後もさまざまな読まれ方をされて、人間というものを深く掘り下げていくだろう。