漢検一級 かけだしリピーターの四方山話

漢検のリピート受検はお休みしていますが、日本語を愛し、奥深い言葉の世界をさまよっています。

貫之集 030

2023-05-16 05:12:14 | 貫之集

やまみれば ゆきぞまだふる はるがすみ いつとさだめて たちわたるらむ

山見れば 雪ぞまだ降る 春霞 いつとさだめて 立ちわたるらむ

 

山を見ると、雪がまだ降っている。にもかかわらず春霞が一面に立ちこめているのは、いったい季節をいつと定めてのことなのであろうか。

 

 雪と春霞、隣接はしていても異なる季節の風物詩を同時に詠み込む手法は、古今集0003 にも見えますし、貫之集でもこのあと 201489 でも登場してきます。

 

はるがすみ たてるやいづこ みよしのの よしののやまに ゆきはふりつつ

春霞 立てるやいづこ みよしのの 吉野の山に 雪は降りつつ

(古今和歌集 0003 よみ人知らず)

 

はるがすみ たちよらねばや みよしのの やまにいまさへ ゆきのふるらむ

春霞 立ちよらねばや み吉野の 山にいまさへ 雪の降るらむ

(貫之集 201)

 

みよしのの よしののやまに はるがすみ たつをみるみる ゆきぞまだふる

み吉野の 吉野の山に 春霞 立つを見る見る 雪ぞまだ降る

(貫之集 489)


貫之集 029

2023-05-15 06:12:40 | 貫之集

延喜十四年十二月、女一宮御屏風の料の歌、亭子院の仰せに寄りて奉る十五首

あたらしき としとはいへど しかすがに からくふりぬる けふにぞありける

あたらしき 年とはいえど しかすがに からくふりぬる 今日にぞありける

 

延喜十四年(914年)十二月、勧子内親王の屏風に添えて、宇多法皇の仰せによって奉った歌十五首

新年になってめでたくはあるものの、私もひどく歳を取ってしまったものだと、しみじみと感じる今日の日であるよ。

 

 「女一宮」は醍醐天皇の第一皇女勧子内親王、亭子院は宇多法皇で、勧子内親王の祖父にあたります。孫のために宴を催し、その際貫之に屏風絵の詠進を求めたというところでしょうか。
 「しかすがに」は「そうはいうものの」「しかしながら」といった意味の副詞。「からし」は味覚の「辛い」意もありますが、ここでは「ひどい」「はなはだしい」「嫌だ」といった意味合いですね。


貫之集 028

2023-05-14 05:53:23 | 貫之集

道行く人の馬よりおりて、岸のほとりなる松のもとに休みて、波のよるを見たるところ

われのみや かげとはたのむ しらなみも たえずたちよる きしのひめまつ

われのみや 陰とはたのむ 白波も たえず立ちよる 岸の姫松

 

道行く人が馬から降りて、岸のほとりにある松の木陰で休んで、波が寄って来るのを見ているところ

岸の姫松を木陰とたのんでいるのは私だけでしょうか。いいえ、白波が絶えず岸に寄せてくるように、大勢の人たちが立ち寄って来るのです。

 

 第四句の「立ちよる」は波が「立つ」と、白波になぞらえた大勢の人々が「立ち寄る」ことの両義が掛かっています。「姫松」は小さな松の意。「岸の姫松」は古今集の 09050906 にも歌われていますね。

 

 023 からの、尚侍(藤原満子)の四十賀の席での屏風歌はここまでとなります。


貫之集 027

2023-05-13 05:43:15 | 貫之集

山の紅葉しぐれたるところ

あしひきの やまかきくらし しぐるれど もみぢはなほぞ てりまさりける

あしひきの 山かきくらし しぐるれど 紅葉はなほぞ 照りまさりける

 

山の紅葉に時雨が降っているところ

山一帯が暗くなるほど時雨が降っているけれど、その時雨に色を深めて紅葉は一層照りはえてきたことよ。

 

 「あしひきの」は「山」にかかる枕詞。時雨が葉を紅葉させると考えられていたことに基づく詠歌ですね。同様のモチーフの歌が 264 にも登場します。

 

もみぢばは てりてみゆれど あしひきの やまはくもりて しぐれこそふれ

もみぢ葉は 照りて見ゆれど あしひきの 山はくもりて しぐれこそ降れ


貫之集 026

2023-05-12 06:05:51 | 貫之集

川のほとりに紅葉あるところ

みなそこに かげしうつれば もみぢばの いろもふかくや なりまさるらむ

水底に 影しうつれば もみぢ葉の 色も深くや なりまさるらむ

 

川のほとりに紅葉があるところ

川のほとりの紅葉は、水底にその影が映り、それでますます色も深くなっていくのであろうか。

 

 月や花などが水面に映っている情景の詠歌は、貫之の得意とするところ。写真の世界でいう「リフレク」というやつですね。