あふことの やまびこにして よそならば ひとめもわれは よかずぞあらまし
あふことの 山彦にして よそならば 人めもわれは よかずぞあらまし
逢うということが、山彦のように遠く響くだけのもので、あなたがよそよそしい他人であるならば、人の目を気にして避けるようなこともなかったでしょうに。
人の目があるので愛しい人との逢瀬もままならない、というもどかしさを「他人だったら人の目など気にしないで済むのになぁ」と、反語表現で表した歌です。
あふことの やまびこにして よそならば ひとめもわれは よかずぞあらまし
あふことの 山彦にして よそならば 人めもわれは よかずぞあらまし
逢うということが、山彦のように遠く響くだけのもので、あなたがよそよそしい他人であるならば、人の目を気にして避けるようなこともなかったでしょうに。
人の目があるので愛しい人との逢瀬もままならない、というもどかしさを「他人だったら人の目など気にしないで済むのになぁ」と、反語表現で表した歌です。
かざすとも たちとたちにし なきなには ことなしぐさも かひやなからむ
かざすとも 立ちと立ちにし なき名には ことなし草も かひやなからむ
ことなし草をかざして何もなかったと言っても、すっかり立ってしまった浮き名には、役には立つまい。
「ことなし草」は忍ぶ草の異名で、ここではもちろん「事無し」の意がかかっていますね。
この歌は、後撰和歌集(巻第十七「雑三」 第1220番)に入集しています。そちらには
しそくに侍りける女の、をとこになたちて、かかる事なむある、人にいひさわげといひ侍りければ
との詞書が付され、また第二句が「立ちと立ちなむ」、第四句が「こなし草の」とされています。
ももはがき はねかくしぎも わがごとく あしたわびしき かずはまさらじ
百羽掻き 羽掻く鴫も わがごとく 朝わびしき 数はまさらじ
何度も何度も羽ばたきをする鴫のその羽ばたきの数も、一人寂しく明けた朝の私のわびしさには勝ることはないであろう。
類歌が 260 にも見え、また両歌は古今集 0761 のよみ人知らずの歌を踏まえています。上記は、「数がまさらない」のは読み手のわびしさの数のことと解釈しましたが、もととなった古今集歌を踏まえ、これを「眠れぬ夜に打った寝返りの数」ととらえる説もあるようです。
なお、この歌は拾遺和歌集(巻第十二「恋二」 第724番)に入集しています。
てるつきを ひるかとみれば あかつきに はねかくしぎも あらじとぞおもふ
照る月を 昼かと見れば 暁に 羽掻く鴫も あらじとぞ思ふ
(貫之集 260)
あかつきの しぎのはねがき ももはがき きみがこぬよは われぞかずかく
暁の 鴫の羽がき 百羽がき 君が来ぬ夜は われぞ数かく
(古今和歌集 0761)
たなばたに おもふものから あふことの いつともしらぬ われぞわびしき
たなばたに 思ふものから あふことの いつとも知らぬ われぞわびしき
たなばたにつけて逢いたいと思うものの、実際いつ逢えるともしれないわが身がわびしい。
「織姫と彦星は年に一度逢えるからまだ良い。そえにひきかえ自分は・・・」との思いですね。597 にも近い発想の歌がでてきます。
ながきよを おもひあかして あさつゆの おきてしくれば そでぞひちぬる
長き夜を 思ひ明かして 朝露の おきてし来れば 袖ぞひちぬる
長い夜を物思いで明かし、露の置く朝に起きてきたので、袖がすっかり濡れてしまったよ。
第四句「おき」は「(朝露が)置き」と「(自分が)起き」との掛詞になっています。袖が濡れたのは露に触れたためのみならず、物思いに涙したためでもあるのでしょう。