たむけせぬ わかれするみの わびしきは ひとめをたびと おもふなりけり
手向けせぬ 別れする身の わびしきは 人めを旅と 思ふなりけり
あなたに何かを手向けたりもできないままに別れてしまう私の心がわびしいのは、人の目を気にしながら別れることを、まるで旅をしているかのように思っているからです。
解釈が難しい歌ですが、上のように訳してみました。
この歌は後撰和歌集(巻第十一「恋三」 第704番)に入集しています。
たむけせぬ わかれするみの わびしきは ひとめをたびと おもふなりけり
手向けせぬ 別れする身の わびしきは 人めを旅と 思ふなりけり
あなたに何かを手向けたりもできないままに別れてしまう私の心がわびしいのは、人の目を気にしながら別れることを、まるで旅をしているかのように思っているからです。
解釈が難しい歌ですが、上のように訳してみました。
この歌は後撰和歌集(巻第十一「恋三」 第704番)に入集しています。
もゆれども しるしだになき ふじのねに おもふなかをば たとへざらなむ
燃ゆれども しるしだになき 富士の嶺に 思ふなかをば たとへざらなむ
いくら思いを燃やしても叶う気配さえもないのに、私たちの仲を、まるで富士山の火のようだなどと喩えないでほしい。
当時、富士山が現に噴煙をあげていたことがわかる歌ですね。古今和歌集の仮名序にも、「富士の煙によそへて人を恋ひ、」との一節があります。
やまかけに つくるやまだの こがくれて ほにいでぬこひぞ わびしかりける
山蔭に つくる山田の 木がくれて ほに出でぬ恋ぞ わびしかりける
山蔭に作る山田が木の陰に隠れてなかなか穂が出ないように、表にだすことのできない私の恋のなんとわびしいことよ。
この歌と非常に良く似た凡河内躬恒の歌が、新勅撰和歌集(巻十一「恋一」 第648番)に採録されています。両歌には、おそらくは何らかの直接的な関係があるのでしょう。
やまかげに つくるやまだの みがくれて ほにいでぬこひに みをやつくさむ
山蔭に つくる山田の 身がくれて ほに出でぬ恋に 身をやつくさむ
なげきこる やまぢはひとも しらなくに わがこころのみ つねにゆくらむ
なげきこる 山路は人も 知らなくに わが心のみ つねに行くらむ
「嘆き」という「木」を切るための山路は誰も知らないのに、どうして私の心だけはいつも「嘆き」を有してしまうのだろうか。
この歌は拾遺和歌集(巻第十五「恋五」 第970番)に入集していますが、そちらでは作者は藤原有時(ふじわら の ありとき)とされています。この藤原有時という人、ネット検索してもヒットせず、どのような人物なのかはわかりませんでした。
しらたまと みえしなみだも としふれば からくれなゐに なりぬべらなり
白玉と 見えし涙も 年ふれば 唐紅に なりぬべらなり
白玉のように見えた涙も、年月を経て恋の悲しみを重ねると、唐紅の血の涙となってしまいそうだ。
藤原行成(ふじわら の ゆきなり)筆と伝えられる古筆切には、「年ごろ、文つかはす人の、つれなくのみあるに」との詞書が付されているそうです。
この歌は、古今和歌集(巻第十二「恋歌二」 第599番)に入集しており、そちらでは第五句が「うつろひにけり」とされています。