先日のカフェ・ツィマーマンのCDの記事で、冒頭の写真を見て思い出したことがある、と書きました。
ご覧のように、女性が紅茶か何かの飲み物を受け皿にあけているこの写真です。
CDに付いているブックレットの解説によると、この絵は18世紀、アントワープ生まれのPeter Jacob Horemansという画家が描いたものだそうです。
見るからにお金持ちのご婦人がお屋敷の庭でティータイムを楽しんでいるところのようですが、届いたCDのこのジャケットの絵を見て真っ先に思い出したのはこちらの本。
(小野二郎『紅茶を受皿で-イギリス民衆芸術覚書』(1981年、晶文社)
著者の小野二郎は英文学者ですが、学生時代にその著作に触れて、学術的な論文は元よりエッセイ等で見せられるその軽妙な語り口に、大いに憧れたものです。
この本は彼の色々なエッセイや論文を集めたものですが、表題にもなっている「紅茶を受皿で」というエッセイのなかで、彼がアイルランドのスライゴーという田舎町の食堂に入った時の光景をこう綴っています。
『私のテーブルの隣に一人の小柄な、というか色々な理由でちぢんでしまったようなおばあさんが座っていた。やがて運ばれてきたのは一杯のお茶と薄いトースト二枚である。(中略)
私はおばあさんの次の行為にあっと息をのみ、説明しがたい感動のようなものにとらわれたのである。それはそれほど奇矯な振舞いというのではなくて、ただお茶をカップから受皿にあけて、そこからすすっただけのことである。』
小野二郎はこの時、これまで別のところで読んだり聞いたりしていた光景が目の前で自然に起こった(彼の表現を借りれば「ある階級にとっては正当な行動様式」で、おばあさんはそれを「何気なく無心に行動してそれを表現した」)ことを受けて、自分がそれまで見知っていたことの限界を痛感します。(彼はそれを「私自身の鈍さ」、「矮小化して読んでしまったという不明」と書いています。)
さらにロンドンに戻った小野二郎は、本屋でヴィクトリア朝時代の露店商人を描いた銅版画を目にします。それがこの本の表紙になっているクルックシャンクのものと同じだったことは「あとがき」で語られるのですが、これはもともとディケンズの出世作「ボズのスケッチ集」(1836年)に含まれていたクルックシャンクのイラストでした。
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ここにはまさに、左手にカップを持ち、右手にその受皿を(まるで杯のように)口に当てている男の姿が描かれています。これは今の時代で言えばスタバやドトールの屋台とも言うべきもので、庶民の出勤前のささやかな朝食風景が鮮やかに切り取られています。
この銅版画の発見にとどまらず、小野二郎はこの「受皿で飲む」という行為の背景をさらに丹念に調べていきます。そして彼自身の結論として、ティーカップのお茶を受皿にあけて飲むという習慣の背景には、ティーカップとはまた別に(というよりも、ティーカップも先に)「ティーボウル」というお茶碗が存在し、そのティーボウルは「口に運ばれるものではなく、そこから(深)受皿(ディープ・ソーサー)に注がれて、そのソーサーからすすられたものだった」というところまで辿り着きます。
私が先日のCDのジャケットを見て思い出したのは、この「ティーボウル」です。もう一度このジャケットの絵をよく見て頂くと、
(クリックすると大きくなります)
正確には分かりませんが、女性が皿の上に中身をあけている器には、普通のティーカップにあるような持ち手が付いていないような気がします。この絵が描かれたのは1716年頃とのことですが、当時はまだこうしてティーボウルでお茶を飲んでいたということなのかも知れません。或いは持ち手があったとしても、中身を受皿にあけるという行為が割と一般的だったのかも知れません。(もっとも、このCDの解説を読むと、この絵の女性は「傍らに居る犬たちにあげようとしているのだろうか?」という記述があって、これはこれで笑えるなぁという気もします。)
「紅茶を受皿で」というタイトルは、私にとってこれほどまでに印象深いものです。特に大学に入ったばかりで、何となく漫然と英語つながりのことを勉強したいと思っていた田舎者にとって、この本はイギリスのヴィクトリア朝という時代に興味を持つ一つのきっかけになりました。同時に、ほんの些細なことでも興味を持って辿っていくということの面白さ、これは本を読んでいる時に連鎖が連鎖を読んでいつの間にか机の上が本だらけになっていくことににていますが、そうした面白さに改めてわくわくしたものです。
今はもう絶版になっているのでしょう、ネット書店で検索しても古本しか出てきませんが、私にとっては決して手放せない、思い出深い本のひとつです。久しぶりにまた他のエッセイも含め読み返してみようと思っています。
小野二郎『紅茶を受皿で-イギリス民衆芸術覚書』(晶文社)
りんぼう先生のエッセイでも読んだ記憶が無い…。
もし自分の隣の席でおばぁちゃんが受け皿で紅茶を飲み始めたら、びっくり仰天だわ(汗)。
その背景を知ろうなんて考えないだろうなぁ…。
イカンイカン。
これは自分を顧みて余りある、貴重な記事を読ませて頂いた気がする。
havinng coffeeの文字があり、
コーヒだとすると上澄みのみを飲むための
手続きかも
小野氏の場合ティーポットが開発途上のために
ディープポットの使用かな
文泉
仮に疑問を持ってもそれをさらに調べるかどうか、そこは
人それぞれだよな。
学生の時にこの本を読んで、こういうのも学問なんだ、
いやこういうのこを学問なんだと、えらい感心した覚えがある。
どうしてもこのクルックシャンクの挿絵が見たくて、
河原町の丸善にディケンズの原書を探しに行ったり。
読めもしないのにね
20年以上昔のことだが、鮮やかに懐かしいよ。
フランス語の cafe となっていますが、ご存じの通り
この時代の絵にきちんと名前が付いていたかどうか、
またそれが正しく伝わっているかどうかは分からないので、
ちょっと何とも言えないです。
もしコーヒーだとしたら、今とは違って煮出していたでしょうから、
仰る通り上澄みだけを飲もうとしているのかも知れませんね。
あ、書き忘れましたが、この本はその後、イギリスの
「コーヒーハウス」なるものへと私を誘導してくれました