福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

陰陽道の呪詛

2022-03-09 | 法話

宇治拾遺や今昔物語には陰陽道で呪詛されて死んだ話が出ています。こういう呪詛がプーチンに効けばいいのですが・・。

・宇治拾遺物語 ・小槻茂助(をつきもすけ)の事

「今は昔、主計頭小槻当平(かずへのかみをづきまさひら)といふ人ありけり。その子に算博士なる者あり。名は茂助となんいひける。主計頭忠臣が父、淡路守大夫史奉親が祖父なり。生きたならば、やんごとなくなりぬべき者なれば、「いかでなくもならなん。これが出で立ちなば、主計頭、主税頭、助、大夫史には、異人はきしろふべきやうもなかんめり」、なり伝はりたる職なる上に、才かしこく、心ばへもうるせかりければ、六位ながら、世の覚えやうやう聞え高くなりもてゆけば、「なくてもありなん」と思ふ人もあるに、この人の家にさとしをしたりければ、その時の陰陽師に物を問ふに、いみじく重く慎むべき日どもを書き出でて取らせたりければ、そのままに門を強くさして物忌してゐたるに、敵の人(茂助に嫉妬して亡き者にしようと思う者)、隠れて、陰陽師にしぬべきわざどもをせさせければ、そのまじわざする陰陽師の曰く、物忌してゐたるは、慎むべき日にこそあらめ。その日のろひ合せばぞ験あるべき。されば、おのれを具してその家におはして呼び出で給へ。門は物忌ならばよもあけじ。ただ声をだに聞きてば、必ずのろふ験ありなん」といひければ、陰陽師を具してそれが家(茂助の家)に行きて、門をおびたたしく叩きければ、下種出で来て、「誰そ。この門叩くは」といひければ、「それがし(茂助の知り合いで茂助を呪詛しようとしている者)が、とみの事にて参れるなり。いみじき堅き物忌なりとも、細目にあけて入れ給へ。大切の事なり」といはすれば、この下種男帰り入りて、かくなんといへば、「いとわりなき事なり。世にある人の、身思はぬやはある。え入れ奉らじ。さらに不用なり(世の人は皆自分の身が可愛いものだ、自分は呪詛を逃れようとしているので門は開けられぬ)。とく帰り給ひね」といはすれば、またいふやう、「さらば門をばあけ給はずとも、その遣戸から顔を差し出で給へ。みづから聞えん」といへば、死ぬべき宿世にやありけん、「何事ぞ」とて、遣戸から顔を差し出でたりければ、陰陽師は声を聞き、顔を見て、すべき限りのろひつ。

このあはんといふ人は、「いみじき大事いはん」といひつれども、いふべき事も覚えねば、「只今田舎へまかれば、その由申さんと思ひて、まうで来つるなり。はや入り給ひね」といへば、「大事にもあらざりける事により、かく人を呼び出でて、物も覚えぬ主かな」といひて入りぬ。それよりやがて頭痛くなりて、三日といふに死にけり。」

 

 

 

 

されば、物忌には、声高く余所(よそ)の人にはあふまじきなり。かやうにまじわざする人のためには、それにつけてかかるわざをすれば、いと恐ろしき事なり。さて、そののろひ事せさせし人も、いく程なくて殃(わざはひ)にあひて死にけりとぞ。「身に負ひけるにや。あさましき事なり」となん人の語りし。                                

 

・今昔物語集巻二十四以陰陽術殺人語 第十八

今昔、主計頭にて小槻の糸平と云ふ者有けり。其の子に算の先生なる者有けり。名をば茂助となむ云ける。主計頭忠臣が父、淡路守大夫の史泰親が祖父也。

其の茂助が未だ若かりける程に、身の才極て賢くして世に並び無かりければ、命有らば人に勝れて止事無く成ぬべき者也ければ、同じ程なる者共、「何で此れ無くても有れかし。此れが立出なば、主計主税の頭・助にも、大夫の史にも、異人は更に競ふべき様無なめり。成り伝へ来る孫なるに、合せて此く才賢く心ばへ直しければ、只六位乍ら、世に聞へ有て思へ高く成り持行けば、無くても有かし」と思ふ人には有にや有らむ。

而る間、彼の茂助が家に怪を為したりければ、其の時の止事無き陰陽師に物を問ふに、極て重く慎むべき由を占ひたり。日共を書出して取らせたりければ、其の日は門を強く差して物忌して居たりけるに、彼の敵に思ひける者は、験し有ける隠れ陰陽師を吉く語ひて、彼が必ず死すべき態共を為させける。

 

此の事為る陰陽師の云く、「彼の人の物忌をして居たるは慎むべき日にこそ有なれ。然れば其の日咀ひ合せばぞ験は有るべき也。其れに己を具して其の家に御して呼び給へ。門は物忌なればよも開けじ。只音をだに聞てば、必ず咀ふ験は有なむ」と。

 

然れば、其の人、其の陰陽師を具してかれが家に行て、門を愕ただしく叩ければ、下衆出来て、「誰が此の御門をば叩ぞ」と問へば、「某が大切に申すべき事有て参たる也。極く固き物忌也と云ふとも、門を細目に開て入れ給へ。極たる大事也」と云はしむれば、此の下衆、返入て「此なむ」と云へば、「糸わり無き事かな。世に有る人の身思はぬやは有る。然ればへ開て入れ奉まじ。更に不用也。疾く返り給ひね」と云はしめたれば、亦云ひ入れしむる様、「然らば、門は開給はずと云とも、其の遣戸より顔を差出給へ。自ら聞へむ」と。

 

其の時に、天道の許し有て死ぬべき宿世や有けむ、「何事ぞ」と云て、遣戸より顔を差出たれば、陰陽師、其の音を聞き、顔を見て死すべき態を為べき限り咀ひつ。此の「具して会はむ」と云ふ人は、「極き大事云はむ」と云つれども、云ふべき事も思へざりければ、「只今田舎へ罷れば、其の由申さむと思て申しつる也。然は入給ひね」と云ければ、茂助「大事にも非りける事に依て、物忌に此く人を呼び出て、物も思へぬ主かな」と云て、入にけり。其の夜より、頭痛く成て悩みて、三日と云に死にけり。

 

此れを思ふに、物忌には音を高くして、人に聞かしむべからず。亦外より来らむ人には努々会ふべからず。此の様の態為る人の為には、其に付て咀ふ事なれば、極て怖き也。宿報とは云ひ乍ら、吉く慎むべしとなむ語り伝へたるとや。

         

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