那須政隆「那須政隆全集・祈祷と霊験」
「・・真言祈祷は三密平等観という形式を通して宇宙一如の境地に徹するものであるからその祈祷の世界は個々の存在に囚われない「空」の境地である。随って普通考えるような霊験の有無はすでに問題とならないし、またその境地ではすべてが霊験として受け取られるのであって、常識的な考えでは推し測りえないものである。元来祈祷と云うものは・・人間的欲望の究極的表現であり、祈祷の心境はまったく人間生命が全面的に圧縮されているからもはや絶体絶命の巌頭に立たされているのである。人間生命の必然的要求によって祈らざるを得ずして祈るのが祈祷の真相である。また真言教学の上から云えば、祈祷は元来衆生引入の方便であって、祈祷の形式を通じて真言曼荼羅に導き入れる者であるから、祈祷はその結果として顕される霊験が問題となるのでなく、祈ることそれ自体がもはや結果なのである。・・加持祈祷に何か絶対的効果があるように固執するのも、またその反対に加持祈祷にはなんの効果もないと固執するのも、ともに迷執としなければならない。・・祈祷する心に霊験の有無を論じる余裕をもつようではまだ真の祈祷になってない。したがってこのような不徹底な境地に彷徨うようでは永遠に救われることはできないし、霊験にもめぐまれない。
もし真に迫って絶体絶命祈祷するというのであれば、自己のすべてを祈祷に任せ、有無の偏執から超脱することとなり、自ら如意満足の霊験を感得するに至る。それで祈祷の秘訣は自己のすべてを祈祷にうちまかせるか否かにある。結果の如何を思いわずらう者には到底真の霊験は恵まれないであろう。このように祈祷は客観的事実にかかわらずあらゆる苦難をのりこえるものであり、単に御利益のみを頼む消極道でなく、むしろ進んで苦難を克服してゆくものなのである。まことに人間は極致にたちいたるや祈祷的形式によって最終的飛躍をなすのである。日夜に祈って倦まなければ必ず福智円満の湿地に恵まれ、人間最上の法楽三昧を獲得するであろう。」
四国遍路でも早朝に人気のない本堂前で土下座して額いて髪を振り乱して一心不乱に拝んでいる老婆を見ました。こういう姿でなければ霊験はいただけまいと思ったことがありました。立ったままで人目を気にして格好をつけて拝んでいるようではまだまだお陰までは遠いということでしょう・・・。
「・・真言祈祷は三密平等観という形式を通して宇宙一如の境地に徹するものであるからその祈祷の世界は個々の存在に囚われない「空」の境地である。随って普通考えるような霊験の有無はすでに問題とならないし、またその境地ではすべてが霊験として受け取られるのであって、常識的な考えでは推し測りえないものである。元来祈祷と云うものは・・人間的欲望の究極的表現であり、祈祷の心境はまったく人間生命が全面的に圧縮されているからもはや絶体絶命の巌頭に立たされているのである。人間生命の必然的要求によって祈らざるを得ずして祈るのが祈祷の真相である。また真言教学の上から云えば、祈祷は元来衆生引入の方便であって、祈祷の形式を通じて真言曼荼羅に導き入れる者であるから、祈祷はその結果として顕される霊験が問題となるのでなく、祈ることそれ自体がもはや結果なのである。・・加持祈祷に何か絶対的効果があるように固執するのも、またその反対に加持祈祷にはなんの効果もないと固執するのも、ともに迷執としなければならない。・・祈祷する心に霊験の有無を論じる余裕をもつようではまだ真の祈祷になってない。したがってこのような不徹底な境地に彷徨うようでは永遠に救われることはできないし、霊験にもめぐまれない。
もし真に迫って絶体絶命祈祷するというのであれば、自己のすべてを祈祷に任せ、有無の偏執から超脱することとなり、自ら如意満足の霊験を感得するに至る。それで祈祷の秘訣は自己のすべてを祈祷にうちまかせるか否かにある。結果の如何を思いわずらう者には到底真の霊験は恵まれないであろう。このように祈祷は客観的事実にかかわらずあらゆる苦難をのりこえるものであり、単に御利益のみを頼む消極道でなく、むしろ進んで苦難を克服してゆくものなのである。まことに人間は極致にたちいたるや祈祷的形式によって最終的飛躍をなすのである。日夜に祈って倦まなければ必ず福智円満の湿地に恵まれ、人間最上の法楽三昧を獲得するであろう。」
四国遍路でも早朝に人気のない本堂前で土下座して額いて髪を振り乱して一心不乱に拝んでいる老婆を見ました。こういう姿でなければ霊験はいただけまいと思ったことがありました。立ったままで人目を気にして格好をつけて拝んでいるようではまだまだお陰までは遠いということでしょう・・・。