雄略天皇も北の高句麗から南の百済を守っています。
「日本書記・雄略天皇」「二十三年479、夏四月、百済文斤王薨ず。天皇、昆支王の五子の中に第二末多王の幼年聡明を以て勅して内裏に喚したまふ。親ら頭を撫で誠勅慇懃にして、其の国に王たらしむ。仍りて兵器を賜ひ幷せて筑紫國の軍士五百人を遣り、國に衛送らしめ、是を東城王と為す。是の歳、百済の調賦常の例に益されり。筑紫安致臣(あちの)・馬飼臣等、船師を率て高麗を撃つ」
雄略8年2月に日本府軍が高句麗を破り9年5月には新羅に攻め込んだが、将軍の紀小弓が戦死してしまい敗走した。20年には高句麗が倭国と友好関係にあった百済を攻め滅ぼしたが、翌21年に雄略天皇は任那から久麻那利の地を百済に与えて復興させたとされる。23年4月に百済の文斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子末多王に筑紫の兵500人をつけて東城王として即位させ、安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討っている。