福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は道昭遷化の日

2024-03-10 | 法話

今日は道昭遷化の日

(道昭。文武天皇四年700三月十日入滅、七十二歳。河内国丹比郡船連(ふねのむらじ)(現・大阪府堺市)出身の法相宗の僧。白雉4年(653年)、遣唐使の一員として定恵らとともに入唐し、玄奘三蔵に師事して法相教学を学ぶ。玄奘は道昭を自分が西域への道中で飢えたときに梨の実をくれた僧であるとして同室で暮らしながら指導をした。帰朝の際、玄奘から舎利と経論と霊験あらたかな鍋を与えられたが海が荒れた時に海神に献じざるを得なかった。持ち帰った多くの経論・経典類は、平城京へ遷都後、平城右京の禅院に移された。晩年は全国を遊行し、各地で土木事業を行った。弟子が、道昭の便器に穴をあけておき寝具を汚してしまったが道昭は微笑みながら「いたずら小僧が、人の寝床を汚したな」といったのみで、一言の文句もいわなかったとされる。ある日、道昭の居間から香気が流れ出て、縄床に端座したまま息絶えていた。遺言に従って、本朝初の火葬が行なわれたが、弟子達が争って骨をかき集めようとするとつむじ風が起こって、灰と骨をすべて飛ばしてしまった。)

続日本紀巻一「(四年三月己未(十日)。道照和尚物化。天皇甚だ之を悼み悼み、使を遣して之を弔賻す。和尚は河内國丹比郡の人也。俗姓船連、父惠釋は少錦下なり。和尚、戒行缺けず、尤も忍行を尚ふ。甞って弟子、其の性を究めんと欲して便器に竊穿す。褥漏を漏す。和尚乃ち微笑して曰く「放蕩の小子、人之床を汚す」と。竟に復た一言することなき焉。初め孝徳天皇白雉四年、使に随って入唐し適ま玄弉三藏に遇ひ師として業を受く焉。三藏特に愛して同房に住せしめて。謂って曰く「吾昔し西域に往き路に在りて飢乏す。村の乞ふべき無し。忽ち一沙門有て手に梨子を持ちて吾に与へ之を食はしむ。吾啖ってより後氣力日に健なりき。今汝は是れ持梨の沙門也」と。又た謂って曰く「經論深妙にして究竟すること能はず。禪流を學び東土に傳へんには如かず」と。和尚教を奉じ禪定を習ひ始む。悟る所稍多。後に於いて使に隨ひて歸朝す。訣に臨んで三藏所持せる舎利經論を以て咸く和尚に授けて「而」と曰く、「人能く道を弘む。今斯の文を以て附属す。又一鐺子を授けて曰く「吾西域より将來する所也。物を煎て病を養ふに神驗あらざるなし。是に於いて和尚拝謝し啼泣而して辞す。登州に至るに及んで使人多く病む。和尚鐺子を出し水を暖め粥を煮、遍く病徒に与ふるに當日に即ち差(い)ゆ。既ち纜を順風に解ひて去る。海中に至る比、船漂蕩して進まざる者七日七夜。諸人怪みて曰く「風勢快好。日を計るに應に本國に達すべきに船肯へて行かざるは計るに必ず意有る也」と。卜人曰「龍王、鐺子を得んと欲す」と。和上之を聞きて曰く「鐺子は此是れ三藏之所施の者也。龍王何ぞ敢て之を索んや」と。諸人皆曰「今鐺子を惜しみて与へざれば恐く船を合りて魚の為に食はれむ」と。因って鐺子を取りて海中に抛入る、登時(すなはち)船進んで本朝に還歸す。元興寺東南隅に別に禪院を建てて住す焉。時に天下の行業之徒、和尚に随って禪を學ぶ焉。後に於いて天下を周遊し、路傍に井を穿り、諸の津濟の處に船を儲け橋を造る。乃ち山背國宇治橋は和尚の創造する所の者也。和尚の周遊は凡そ十有餘載、勅請有りて還りて禪院に止住す。坐禪故の如し。或は三日に一起、或は七日に一起。修忽ちに香氣房より出ず。諸弟子驚き怪みて就きて和尚に謁すれば繩床に端坐せり。氣息有ること無し。時に年七十有二。弟子等遺教を奉じ栗原において火葬す。天下の火葬此より始まる也。世傳云、火葬畢りて、親族弟子と相ひ爭ひ、和上の骨を取り之を歛せんと欲するに飄風忽ち起り灰骨を吹き、終に其の處知れず。時人焉を異しむ。後に平城に遷都す也。和尚の弟及び弟子等、奏聞して新京に禅院を徒建つ。今の平城右京禪院是也。此の院に多くの經論有り。書迹楷好く並に錯誤あらず。皆和上の将來する所の者也。」

 

 

本朝高僧傳巻一。「釈道昭、姓船連氏、河州丹比郡の人。天資明敏、戒珠無缼。元興寺に住す。聲四方に暢す。白雉四年(653)癸丑五月、渡海の勑を奉じ沙門定慧・道厳等十有三人、遣唐使小山長丹に従ひ入唐。高宗永徽四年653某月也。昭、長安に届き、弘福寺玄奘三蔵に謁す。奘、諸徒に讃じて曰く、「此の沙門、向来多、人を度す矣。汝等異域人なるを以て之を軽んずる勿れ。因みに謂う、我昔天竺に往き路糧絶へ人家に邇はず、殆ど将に餓死せんが偶々一沙門梨を以て我に恵み我是を哺し気力日に健に漸く竺土に達す。其の沙門即ち汝の前世なり。夙縁虚しからず、其忘べき乎」。命じて同房に居さし、繊隠指摘綱猷曲示す。昭、慈恩寺等の諸師と同社頡頏(拮抗のこと)す。一日、奘、語りて曰く「教相繁冗、労多くして功少なし、禅を学ぶに如くはなし。此の宗微妙、汝當に此の法を承け東域に伝ふべし」と。昭、伏膺参修、尋ねて証悟を獲る。又、指して相州隆家寺慧満禅師を見る。満公鄭重に開示し乃ち先師僧那嘗て言ふ、昔達磨大師楞伽経を以て二祖に付して曰く、吾震旦所有経を観ず、唯此の四巻以て心を印すべし。汝帰国して衆を度すせ、當に拠り所と為む。昭、弘福寺に還り別を告ぐ。(玄奘いわく)「我、天竺より持来物を享く。病を治す必ず神勑あり。併せ以て汝に贈る」と。出でて登州にいたる。衆人多疾、鐺を以て粥を烹、或いは水を煎りて之を哺に、病者皆愈ゆ。既に洋中に至るに風濤俄かに作る。漂蕩七日、卜者有りて曰く「此の海、神の所為なり。神は宝物を嗜す。必ず此の鐺を索す也。當に之を一獻じ進を得るべし」と。昭曰く「此の佛国の霊器は三蔵の賜る所、其れ捨つべきや」。舟人僉な曰く「安に一鐺を以て衆命を失はんことを得る乎」と。昭、やむを獲ず鐺を以て海に投ぐに風浪立に止む。船は進んで岸に着く。直ちに南都に回り、専ら諭導に事ふ。此の土、始めて楞伽の深旨、五法・三自性・八識(楞伽経の所説。五法とは「相、名、分別、真如、正智」のことであり、三性とは「遍計所執性、依他起性、円成実性」のこと。八識とは「眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、第七末那識、第八阿賴耶識」)の深旨を聴く。元興寺東西隅に別に禅院を構ふ。終日定座、國人崇信、禅を学ぶ人多し。昭は又諸州に遊び利済に勤め、或は義井を掘り、或は渡船を造り、橋梁を架け、化蹟殆ど遍し。城州宇治橋修営これその一也。昭、外にありては十載、勅ありて院に帰す。昭、坐禅の毎に、或は三日に一度、或は七日に一湌、又夜分牙歯放光誦経。文武二年698冬十一月、薬師寺繍佛成る(持統天皇は持統六年669、薬師寺講堂本尊として天武天皇菩提の為に阿弥陀三尊と百餘の諸仏を刺繍した大繍佛を造立している)昭を詔して開眼導師と為し、賞して大僧都に任ず。此の任は昭を以て始と為す。一日病無くして湯を索し沐浴、衣を披き状に坐す。光明室に盈つ。門人に問ふて曰く「汝等還りて光を見る麽」、諸徒曰く「見る」と。昭曰く「妄言する莫れ」。後夜の光明壁を透って庭松に徹す。少選、其の光、西を指して

去る。香気房に亘る。諸徒怪しみ往き之を見る。昭、已に逝く矣。実に文武四年三月某日也。上、聞し召して嗟悼、中使い弔臨す。門弟等放光牙を憶ひ供養将収す。已に鬼神となる。取る所、西天の法に随ひ栗原に於いて火葬す。薪盡火滅した後、暴風遽に起り骨灰共に失せる焉。享年七十有二。坐臘若干載。昭、満腔寛仁、和気人に逼る。弟子等試みにひそかに便器を掘り座褥を湿汚す。昭、微笑して曰く「放蕩小子、人の状を穢す」と。卒して復た話なし。伝来の経籍は禅院に蔵す。和銅二年元明帝、平城遷都、昭の徒、奉じて新都に禅院を建つ。是れ平城右京諸院也。経書又玆に蔵す。本朝入唐伝法者は凡そ四人あり。道昭第一番也。皆曰く「漢の劉寛の妻、寛の心を験せんと欲して侍婢に羹を覆して衣を汚さしむ、寛は恚らずして徐言『汝の手、爛す乎』と(『蒙求』「劉寛蒲鞭」に劉寛の妻が劉寛の温和さを試そうとして下女に劉寛の衣に汁をかけさせたが劉寛は下女の火傷を心配したという故事)。昭公も坐穢を見て笑ひて怒らず、真俗異なりと雖も枢機是れ同じ。吾門以て奇となさず。故人未だ之を称さず。偶ま國史を閲し此の一事を得る矣。伝聞く奘公、四祖道信禅師に参じ悟る処あり、誠なる哉、其然り。昭公、臨終の指示、滅後の神異、造次顚沛(一瞬も)禅道にあらざるはなし。只だ是れ家を命ぜざる故、故人言を罔ず。想夫此方、禅法の初承矣乎。

 

 

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