福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「一生の公案」

2016-06-24 | 法話
昨日今日心境に一大進化がありました。即ち今まで自分なりに「一生の公案」いや「生まれ変わり死に変わりして解くべき公案」とおもっていた人生の一大疑念が氷解したのです。

自分なりの公案とは
1、 今から40年以上前上京したてのころ当時井之頭公園にあった武蔵野般若道場で苧坂光龍老師に頂いた「私が交通事故で骨を折って痛いのと、お前が骨を折って痛いのとどう違うか?」という公案
2、 いろいろな本で見た「不昧因果と不落因果」(覚ったものは因果に落ちるや否や)という問題。
3、 是もいろいろな本に出てくる「父母未生以前本来の面目(父母が生まれる前おまえはどこにいたのか)」の公案
4、 福聚講でよく話題になる、「弱肉強食」をどう考えるか。
5、 6年前太龍寺で求聞持のとき、未明に岩の上で座禅をしていて、満天の星をみて「なぜ世界にはこういう福徳を頂けないで苦しんでいる人々がいるのでしょうか?」と仏様に尋ねた時、「すでにすべてのものにこの満天の星のような福徳がさずけられているぞ」とお示しをいただいた意味。
6、 この平成27年4月18日未明、夢で御大師様が「全てのものに霊験をあたえてあるが、その跡を消してあるので数十年後でなければわからぬであろう」とおっしゃった意味。

これらの答えが昨日今日の行法で一辺に解決しました。行法のなかの字輪観のとき突然体に答えが湧いてきたのです。当たり前といえば当たり前ですが、字輪観そのものがこれらのすべての問題に対する答えをあからさまにこれでもかこれでもかと示して下さっていたのです。それなのにいままで何十年も意味も分からず行じていたのです。

この答えに比較的近いと思われるのが南方熊楠の考えです。
明治35年3月22日、熊楠より土岐法龍あての手紙に「・・・霊魂の死不死などは題からして間違っておる。神道ごとき麁末なるものにすらアラミタマ、クシミタマなどということがある。神にまた魂魄ある説なり。魂と魄の別などは太古から支那にあったらしい。すでに霊魂といわば不死をのみこんだ下題なり。もし人間の人間たる所以の精(エッセンス)が死か不死かとの説ならんには予は他の動物とかわり不死と答うべし。・・・康熙なりしか乾隆なりしか、支那の帝王にして、天地一大劇場、堯舜は立ち役、桀紂は悪方などいひし人ある。予をもってすれば世界は一大劇場、法律は刑罰場、色事は濡れ事場、議論は相談場、憂苦は阿波の十郎兵衛、殺伐は六段目、謀計は七段目、立志は天河屋の段、短慮は八百屋お七の恋の火桜、これのみ。さたしんだら感相同じ一大柩、悪方もああ苦しく務めた、濡れ事師もつまらぬことに骨折ったがずいぶんうけましたろうかねと、一大愉快を催すこと、虎渓の三笑(晋の高僧彗遠(えおん)は東林寺にいたが、寺の下にある虎渓をまだ渡ったことがなかった。あるときやってきた詩人の陶潜と道士の陸修静を見送って行く道すがら、話が弾み、虎渓を渡ったのも気付かず、虎の吠えるのを聞いてはじめて気がつき、三人顔を見合わせて大笑いしたという逸話)そこのけなり。・・・悪趣下愚の人間、急に浮かばれず、死んでも六道に迷うは芝居が混雑して手拭を落としたるを尋ね周り、役者が楽屋で役割の当不当を論じ、給金や花に葛藤を生ずるほどのことで、まけおしみから今一度やってみたくなり、無理な算段をして今一度櫓をたてかえさんなどいうやつが、再生輪廻を脱せずに馬のあしとなり鬼卒となりまわるようなもの・・」

とありますがいままでみたなかではこれが一番本質に近い答えと思います。それ以上は今回は言及を控えます。
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