真言宗では自心即佛・娑婆即浄土と観想するが方便として娑婆の外に浄土ありと観想するのも許される。理趣釈経、阿弥陀の儀軌等にも往生浄土のことを説いてある。知道上人の「好夢十因」にもある。従って真言の中に往生のことを説いても教理に背くという事にはならない。
このなかで真言行者の求める浄土は密厳浄土です。密厳浄土は大日如来の浄土で法界に遍くひろがっているものですから兜率浄土も極楽浄土も皆その中にあります。興教大師の「密厳浄土略観」の中に於いて密厳浄土の荘厳を「十方の浄土を前栽とし、諸仏の妙刹を後閣とす」とあります。・・西方極楽浄土も兜率浄土もみな密厳浄土の一部であるから差支えない。それならこれらの西方極楽浄土や兜率浄土を願うものは密厳浄土の一部しか得られないかというとそうではない。兜率浄土を願うものも極楽浄土を願う者も正しく往生した時は自身即大日の観智が開けて兜率即密厳、極楽即密厳となる。
このなかで真言行者の求める浄土は密厳浄土です。密厳浄土は大日如来の浄土で法界に遍くひろがっているものですから兜率浄土も極楽浄土も皆その中にあります。興教大師の「密厳浄土略観」の中に於いて密厳浄土の荘厳を「十方の浄土を前栽とし、諸仏の妙刹を後閣とす」とあります。・・西方極楽浄土も兜率浄土もみな密厳浄土の一部であるから差支えない。それならこれらの西方極楽浄土や兜率浄土を願うものは密厳浄土の一部しか得られないかというとそうではない。兜率浄土を願うものも極楽浄土を願う者も正しく往生した時は自身即大日の観智が開けて兜率即密厳、極楽即密厳となる。