昨日は元号が慶応から明治に改元された「明治元年9月8日(1868年10月23日)」日で明治150年の記念式典も行われたようです。しかし明治維新の蛮行は夙に識者の指摘してきたところでもあります。以下10点ほど識者の批判を載せておきます。
明治維新の蛮行・・その1、 梅原猛「歓喜する円空」「明治維新でつくられた新しい神は仏と共に古き神をも滅ぼした」
「円空は護法神を多く作って、日本の神々がすべて護法神となって仏法を護ることを願った(「飛州史」には円空の「我山岳に居て多年仏像を造り、其の地神を供養す」という言葉が残っています)、・・・(しかしその後、)仏法を排斥する神の学、国学というものが起こり、明治維新を迎える思想の原動力の一つとなり、明治新政府をして神仏分離・廃仏毀釈の政策を採らしめた。まさに円空の期待に反して神が仏を滅ぼしたのである。しかしその神は円空の言う、縄文時代の昔から日本にいる神々ではなく、新しく作られた国家という神であった。実はその新しい神は、仏とともに日本のいたるところにいた古き神をも滅ぼしたのである。そしてその新しき国家という神もまた、戦後を境にして死んでしまったのである。こうして日本は世界の国々の中でほとんどただ一つの、少なくとも公的には神も仏も失った国となったのである。
明治維新の蛮行・・その2。滝川政次郎『日本人の歴史』「廃仏毀釈は明治政府の犯した最大の罪悪であって日本社会における人心の頽廃、道義心の欠如はここに淵源を発している」
滝川政次郎『日本人の歴史』「・・廃仏毀釈は明治政府の犯した最大の罪悪であって日本社会における人心の頽廃、道義心の欠如はここに淵源を発している。仏教と絶縁した神道は原始信仰に戻らざるを得ないが、ドクトリンを持たない原始信仰は民俗学の対象とはなっても文明人の信仰とはなりえない。故に神仏の分離即ち信仰の喪失となって日本人はその人格の骨格を失い、道義心の基盤をなくしてしまった。明治政府をして神仏分離を行わしめた者は、平田神道派の人々である。平田篤胤は儒佛道は勿論、基督教まで研究した精力的な学者であるが、愛憎の強い、駆け引きの上手な大山師であって、変説・剽窃を平気で行った。かれは白川家の勢力を藉って自己の勢力を神官の仲間に扶植するためにその学説を変え、自己の博識を衒うために伴信友の研究を剽窃した。さうして彼の剽窃に抗議した信友を人間の皮を被った畜生とののしっている。彼の養子鐵胤は彼に輪をかけたやうな狂信者で、地球は回転しても神国日本は不動であると頑張った。維新の際に暗躍した尊攘志士の中には、平田神道を奉ずるものが多かったので、維新以後かれらの鼻息は頗る荒く、政府部内においても強い発言権を持つた。慶応四年三月、佛教を極端に排斥するこれら狂信者は政府に迫って神仏分離の令を発せしめ、僧侶の神事にあずかるものは悉く還俗せしめ、権現社・神宮寺は社寺いずれかに分かち、社殿の鰐口・独鈷・梵鐘・仏殿の神像はいずれも撤去せしめ、日蓮宗の寺院においては三十番神をまつることを禁止した。・・奈良の興福寺においては大乗院・一乗院の僧侶は神仏分離令の発令と共に復飾して春日社に奉仕せしめられたたため興福寺は一時無住となり、什宝は四散し、五重塔は二百五十円の低価で売却せられた。祖父の語ったところによると同寺の什宝であった奈良時代の紺地金泥の写経を買い受けた人は金粉を得る為に今日ならば一寸万金に値する経巻を大釜の中に投げ込んでグラグラ煮たといふ。・・この暴挙によって滅んだ日本の古美術は今次の戦災によって滅んだ古美術よりも遥かに多かったのである。しかし古美術よりも惜しまるるべきものは、道昭・行基以来、幾多の高僧名知識の努力によって築き上げられてきた習合仏教の信仰が滅んだことである。・・徳川時代の空気を吸った人と現在の人との違ふ点は、勿体ないとか、冥加につきるとか、殺生だとかといふ言葉の意味が体得できているかどうかといふことである。・・かふいう言葉の意味がよくわかっている兵隊なら外地で戦っても残虐行為で軍事裁判にかけられることはまずあるまいと思われる。しかしいくら力んでみても一度失われた信仰は再びかえってこない。・・・」
明治維新の蛮行・・その3。「徳の象徴であった天皇を武力の象徴としたのが明治維新」(「日本古来の伝統と明治維新後の歪曲について(和辻哲郎)」)
「日本古来の伝統と明治維新後の歪曲について(和辻哲郎)」「明治維新が尊王攘夷の標語のもとに達せられながら幕府を倒した維新政府が直ちに幕府と同様の開国主義に転じたことは周知のとおりである。・・攘夷派の主張が結局討幕の為の策略に過ぎなかった・・。しかし攘夷のほうはともかくとして尊王の立場が維新後に持続され一層力強く主張されていったことも周知のとおりである。特に維新直後は平田派の国学者を中心として著しくファナテックな尊王主義者が勢力をもっていた。大教宣布の運動(明治3年1月3日(1870年 2月3日)に、天皇に神格を与え神道を国教と定め大日本帝国を祭政一致の国家とする詔書を出させた)などがその現れである。・・その結果として千数百年にわたる日本の歴史的伝統とは異なるさまざまな現象が天皇崇拝の立場と結びついて現れてきた。紀元節とか宮城とか大元帥とかいふものは皆そうである。・・これらは日本の古い歴史的伝統と係りがないばかりでなくむしろ歴史的伝統とは相いれない点を持つものである。・・
紀元節は明治5年の太陽暦採用に関連して明治6年から考え出されたことであってそれ以前の日本人はかって考えたこともなかった。・・続日本紀では巻二の大宝元年以降年はすべて元号を以て記しているがその後はずっと千二百余年後の昭和時代に至るまでその風が続いている。・・以上の如きが日本の伝統であって一一年の位置は天皇の名或いは元号と結びついて定まることになっている。神武天皇即位の年を紀元元年としそれを規準としてその後の年を数えるというようなことはわれわれの祖先のかって考えもせず況や実行もしなかったところである。・・維新政府が紀元節を重大視したのは・・明治維新が武力を以て達成されたといふことと関係のある問題である。・・聖徳太子の憲法とか大宝養老の律令とかに示された天皇統治の理想によると、天皇はあくまで徳を以て治むべきものであって武力の上に立つべきものではなかった。武力は国を守るに必要であるがしかし政治の手段とすべきものではなかった。・・しかし武力を以て幕府を倒した「武士」たちは・・天皇の統治の理想など顧みず、神武東征の伝説の主人公すなわち遠征軍の指揮者神武天皇を我が国の建国者として特別に重んずるという態度をとったのである。・・もし年数の通計を併せて記憶したいというのであるならばここに西暦を参照した方がはるかに便利である・・紀元節の設定が王政復古は王朝への復古でなく神武時代への復古であるという主張、すなわち天皇を軍隊の最高指揮者大元帥たらしめようとする思想と連関しているように、江戸城を皇居たらしめそれを「宮城」と称したことも天皇を将軍の位置に据え大元帥にふさわしい体制を取るということと密接に関連しているように思われる。・・「宮城」という言葉が皇居を意味するようになったのは明治初年特有の現象であって日本の古来の伝統にかってないことなのである。・・皇居は久しい間、内裏・禁裏・大内などと呼ばれていた。・・防備を施した城郭ではなくただの建築であった。・・御所としての根本の形態は全然無防備の木造建築であっって・・・(それ以降も)皇居と武将の居城とは日本においては意識的に区別されていた。・・・(江戸遷都により)武将の城、武備によって・・これらはあくまで権力を誇示する城が突如として皇居とされそれが続いている間にいつのまにか皇居が「宮城」に変質していった。この変質と同時に天皇の将軍化、大元帥化がおこなわれ天皇は軍服姿で国民の前に現れるようになった。これらはあくまで明治維新後の現象であってそれ以前千数百年にわたる日本の伝統には全然見られなかったことである。・・京都御所の担っている意味、即ちあくまでも「武備」を持たない、最高のみやびの場所としての内裏の意味は(武力闘争によって幕府を倒した新政府には理解できなかった)ので教えられなかった。・・」
明治維新の蛮行・・その4。「日本農士学校設立の趣旨(安岡正篤)」「明治政府の教育政策が卑屈な功利主義の国民を造ってしまった」
「日本農士学校設立の趣旨」「人間に取って教育ほど大切なもののないことは言ふまでもない。国家の命運も国民の教育の裡に存すると古人も申して居る。真に人を救ひ世を正すには、結局教育に須たねばならぬ。然るにその大切な教育は今日如何なるありさまであろうか。
今日の青年は社会的には悪感化を受けるばかりで、その上に殆ど家庭教育は廃れ、教育は学校に限られて居る。そして一般父兄は社会的風潮である物質主義功利主義に識らず識らず感染して、只管子弟の物質的成功、否最早今日となっては卑屈な給料取りたらしめんことを目的に(実は今日それも至難になってきて居る)力を竭して子弟を学校に通はせる。その群衆する子弟を迎へて学校は粗悪な工場と化し、教師は支配人や技師、甚だしきは労働者の如く生徒は粗製濫造された商品と化し、師弟の道などは滅び、学科も支離滅裂となり、学校全体に何の精神も規律も認めることが出来ない。その為に青年子弟は、何の理想もなく、卑屈に陥り、狡猾になり、贅沢遊惰に流れ、義理人情を弁へず、学問や道に対する敬虔の念を失ひ、男児に雄渾な国家的精神無く、女子に純潔な知慧徳操が欠けてしまった。これで我等民族、我等の国家は明日どうなるであろうか。更に一層深く考へると、なまなか文化が爛熟して、人間に燃える様な理想と之に伴ふ奮闘努力とが消滅し、低級な享楽と卑怯な荀安とを貪って、四の五の言ふ様になってしまうと、かかる階級は救済不可能である。平安の公家達も江戸の旗本御家人共もかくして滅んだ。匡房も嘆じ、吉宗も定信も焦ったのだが、終に如何とも出来なかったのである。かヽる時国家の新生命を発揚した者は、必ず頽廃文化の中毒を受けずに純粋な生活と確固たる信念とを持った質実剛健な田舎武士であった。今日も真底の道理には変化はない。この都会に群る学生に対して今日のような教育を施してゐて何になろう。国家の明日、人民の永福を考へる人々は是非とも活眼を地方農村に放って、此処に信仰あり、哲学あり、詩情あって、而して鋤鍬を手にしつと毅然として中央を睥睨し周章ず騒がず、身を修め、家を斉へ、余力あらば先ずその町村からして小独立国家にしたてあげてゆかうといふ土豪や篤農や郷先生を造ってゆかねばならない。是新自治(面白く言へば新封建)主義とも謂ふべき真の日本振興策である。これを軽薄な社会運動、職業的な教化運動とは全然異り、河井蒼竜窟の所謂地下百尺の所に埋まって、大事を為さうといふ国家鎮護、社稷永安の道業である。かくて金鶏学院開設以来四年我々は一面思を此処に潜めて、地方農村の蟠踞して国家維新の先覚者、重鎮的人物たるには如何なる学問教養勤労を励むべきかを研究し、その間更に我々の微志は日本の柱石たるべき各本面の国士の方々とも次第に交わりを結んできた。
時勢は最早一刻も偸安を許さぬ。我々は先ず自ら荀安を貪って空理空論して居るべきではない。茲に於いて我々は上述の覚悟を体現すべく、屯田式教学の地を武蔵相模の山沢に探ね、(何となれば此地方は鎌倉武士発祥の処で、武相の兵は天下に当るといはれたものであるから)遂に鎌倉武士の花と謳はれた畠山重忠館跡を択んで此処に山林田畑二十丁歩の荘園を設くるを得た。流石古英雄の卜した処だけあって地形、土質、風光共に得難い勝地である。私は此処に年来寝食を共にして勉道した五六の学人と共に、(日本農士学校)を設けて聊か平素の懐抱を実現してゆきたいと思ふ。昭和六年四月 」
明治維新の蛮行・・その5。「神社合祀に関する意見(南方熊楠)」「神社合祀は民の和融を妨げ地方の凋落を来たし人情風俗を害す大害あり」
「神社合祀に関する意見(南方熊楠)」「神社合祀は、第一に敬神思想を薄うし、第二、民の和融を妨げ、第三、地方の凋落を来たし、第四、人情風俗を害し、第五、愛郷心と愛国心を減じ、第六、治安・民利を損じ、第七、史蹟・古伝を亡ぼし、第八、学術上貴重の天然紀念物を滅却す。
当局はかくまで百方に大害ある合祀を奨励して、一方には愛国心、敬神思想を鼓吹し、鋭意国家の日進を謀ると称す。何ぞ下痢を停めんとて氷を喫くらうに異ならん。かく神社を乱合し、神職を増置増給して神道を張り国民を感化せんとの言なれど、神職多くはその人にあらず。おおむね我利我慾の徒たるは、上にしばしばいえるがごとし。国民の教化に何の効あるべき。かつそれ心底から民心を感化せしむるは、決して言筆ばかりのよくするところにあらず。支那に祭祀礼楽と言い、欧州では美術、音楽、公園、博物館、はなはだしきは裸体の画像すら縦覧せしめて、遠廻しながらひたすら一刻たりとも民の邪念を払い鬱憤を発散せしめんことに汲々たり。いずれも人心慰安、思慮清浄を求むるに不言不筆の感化力に須またざるべからざるを知悉すればなり。わが国の神社、神林、池泉は、人民の心を清澄にし、国恩のありがたきと、日本人は終始日本人として楽しんで世界に立つべき由来あるを、いかなる無学無筆の輩にまでも円悟徹底せしむる結構至極の秘密儀軌たるにあらずや。加之しかのみならず、人民を融和せしめ、社交を助け、勝景を保存し、史蹟を重んぜしめ、天然紀念物を保護する等、無類無数の大功あり。
しかるを支那の王安石ごとき偏見で、西湖を埋むるには別にその土泥を容るべき大湖を穿たざるべからざるに気づかず、利獲のみ念じ過ぎて神林を亡えば、これ田地に大有害の虫菑(ちゅうさい・荒地)を招致する所以ゆえんなるを思わず、非義饕餮(とうてつ・貪る者)の神職より口先ばかりの陳腐な説教を無理に聞かせて、その聴衆がこれを聞かぬうちから、はや彼輩の非義我慾に感染すべきを想わざるは無念至極なり。・・・」
明治維新の蛮行・・・その6、日本人の「魂・徳性」を否定し浅薄な「知識・技術」に走った。
(参考4、「人間教育をわすれた明治の失敗」安岡正篤
「・・明治・大正・昭和にかけての学校教育というものが残念ながら人間教育(人間の本質的要素である徳性も磨くこと)をお留守にしてしまった。専ら知識教育・技術教育になってしまったのであります。
明治時代はまだ旧幕府以来の余徳でいわば先祖の財産で暮らせたように、それほど弱点を出さなかった。馬脚を現さなかったのでありますが、しかしその間に、残念ながら「出来た人物」というの非情に乏しくなりました。専ら高利的・知識的な機械的な人物、才人、理論家が排出したわけであります。・・そこで第一次大戦で日本はほとんど犠牲らしい犠牲を払わずに戦争に便乗して大儲けをした、この時に・・明治から大正にかけての日本の退廃と堕落が一辺に噴出したのであります。・・昭和の初めになって「昭和維新(注、五・一五事件、二・二六事件等に代表される右翼運動)」ということが叫ばれるようになりました、・・ところが明治維新とちがったところは、中心人物たちが・・人間が練れておらぬ、見識とか器量とかいうものはできておらぬ、・・それが転じて満州に反映しました、・・このときに根本的教養の欠如というものがおおきな災いをいたしました。・・(安岡正篤「人間教育をわすれた明治の失敗」)・・」「・我々の民族的悲劇太平洋戦争敗戦の事実の依って来る原因を検討していくとき、この民族の悲劇の原因はまさに明治維新そのものに胚胎していることを発見する。・・明治維新が、封建制度を清算して鎖国の時代錯誤を解くという、正当な順序に出ることができないで、外国の圧力に屈し、鎖国の国策変更を迫られて封建制度を放棄せざるを得なかったのであるが、その革命を遂行するに際し、どうしても首尾一貫した指導理念を発見することができなかった。そのため尊王攘夷の革命理論は佐幕開国と争って勝ったけれども革命の後、直ちに尊王開国にその政策を変更せざるを得なかった。ここに明治維新の限界があった。この攘夷から開国への転換は、明治維新の最大の弱点であった。・・・このような徒なる明治維新の美化は大正・昭和の若き日本民族をしてその廉恥を失わしめ、生来の事大主義と機会主義とを一層不健康に肥大させる以外になにものにも貢献しなかった。太平洋戦争の原因も敗因もここに胚胎している。(明治維新の限界、吉田庸作)」
この論を現在に普遍すれば、「日本はすごいという根拠なき事大主義と今さえよければよければいいという刹那主義」を植え付けた明治維新の失敗は太平洋戦争原爆被災を経てさらに東日本大震災の世界に類のない大原発事故にまでつながっているといえましょう。
明治維新の蛮行・・その7
・「逝きし世の面影・渡辺京二」は幕末の西洋人の眼を通して、江戸期の日本がユートピアのような世界だったがそれが滅ぼされようとしていたことを証明しています。「逝きし世の面影・渡辺京二」「一つの文明が滅んだのである。一回かぎりの有機的な個性としての文明が滅んだのだ。それを江戸文明とよぶか徳川文明とよぶか、呼び名はどうでもいい。しかし、そのように呼びたくなるほど、われわれにとっての大きなもの、つまり文明が、いつしか喪失してしまったのだ。バシル・チェンバレン(東京帝国大学名誉教師)は「あのころー1750年から1850年ころーの社会はなんと風変わりな、絵のような社会であったか」と嘆声を発した。(イザベラバード(イギリス人女性旅行家)は江戸から日光まで人力車で旅をしたとき車夫達が一切余分な金銭を受け取らずそれどころろか野の花を摘んで渡してくれたと書いているようです。)安政5年に、日英修好通商条約を結ぶために来日したオリファントは「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、まったく驚くべき事実である」と書いた。・・ヒュースケン(ハリスの付き人)は「この国の人々の質朴な習俗とともに、その飾り気のなさを私は賛美する。この国土の豊かさを見、いたることろに満ちている子供たちの愉しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見出すことの出来なかった私は、おお神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が重大な悪徳を持ち込もうと しているように思われてならない。」といい、・・リュードルフ(1855下田に来港したプロシャ商船の乗組員)は「日本人は宿命的第一歩を踏み出した。しかし丁度自分の家の礎石を一個抜き取ったと同じでやがては全部の壁石が崩れ落ちることになるであろう。そして日本人はその残骸の下に埋没してしまうであろう。」・・・異邦人たちが予言しやがて目撃し証言することになった古き日本の死は‥一つの全体的関連としての有機的生命、すなわち一つの個性を持った文明の滅亡であった。」その江戸期までの日本文明の個性とは、「日本には「親和力」があったということ(荒野に立つ虹・渡辺京二)」のようです。この「親和力」は、神仏一体の壱千年の日本人の信仰生活以外からは生じようがありません。神仏分離・国家神道を推し進めた明治政府によりこの「親和力」はみごとに崩壊させられて今日の混乱に至っているといえます。
明治維新の蛮行・・その8
・夏目漱石も明治の「精神的困憊・道徳の敗退」を批判していました。「精神の困憊と身体の衰弱とは不幸にして伴っている。のみならず道徳の敗退も一緒に来ている。日本国中何所を見渡したって輝いている断面は一寸四方も無いじゃないか。(「それから」)」。日本人は江戸期までは人生を丁寧に丁寧に生きていたようです。例えば杉本鉞子(すぎもと えつこ、1873年(明治6年)- 1950年(昭和25年)6月20日)『A Daughter of the Samurai(武士の娘)』はアメリカで初の日本人ベストセラー作家。コロンビア大学の初の日本人講師)が回想する長岡藩家老稲垣家の盆行事を「逝きし世の面影・渡辺京二」で引用しています。「数日前から準備が始まる。庭木生垣を刈りそろえ庭石を洗い、床下まで掃き清める。・・仏壇は行事の中心である。当日爺やは夜が明けぬうちに蓮池へ降りてゆく。これは朝日が差し始める光と共に華が開くからである。仏壇には茄子や胡瓜で作った牛馬が供えられ、蓮の葉に野菜が盛られる。女中が盆灯篭を高々と掲げる。・・黄昏には一家そろって大門のところで、二列に分かれて精霊を待つ。街中が暗く静まり返り、門ごとに焚く迎え火ばかり。・・ひくく頭を垂れていますと待ちわびていた父の魂が身に迫るのを覚え、遥か彼方から蹄の音が聞こえて白馬が近つ゛いてくるのが判るようでございました。・・」。
・ラフカデオハーン「神国日本」によれば、以前、日本の家庭は無数の神様、仏様のおられる神聖な場所でした。又職業も神様に見守られていました。「・・日本人は、その職業がなんであるにしろどの神かが(その職業を)支配していた。どんな道具を使用するにしろその道具はその技芸技術の祭祀に加入している人たちに許されている慣習に従っての作法通りの使用法で用いなければならなかった・・・」「・・日本の外見上の不思議さには結局美しさが充ち溢れていることがわかるのだが、それと同様その内面的な不思議さの中にもそれ自体の美しさがあるように思われる。・・それは庶民の日常生活に反映している道徳的な美しさなのである。こうした庶民生活の魅力に富む部分は・・こうした外国人が・・半年か一年日本内地のどこか古風な町に住んだと考えてみよう。その滞在のそもそも初めから彼の周囲に生活している人たちが如何にも親切で楽しそうな様子に深い印象を受けずにはおれまい。・・だれもかれもがお互いに仕合せそうな顔をして楽しそうな言葉で挨拶をしあっている。にこにこ顔をはなすことがない。・・いつどんな場合にもそとに表れる快活さだけは決してなくならない。つまりどんな災難が・・暴風雨や火災、洪水や地震があっても挨拶しあう笑い声、明るい笑顔に丁寧な会釈、心からの慰問にお互いをよろこばせたいという気持がいつも人の世を楽しいものにしようとしている。宗教もこの日の光のような明るさの中では暗い影を持ち込まない。そこで神様や仏様の前で人々はお祈りを捧げながらもにこやかである。寺院の境内は子供たちの遊び場であり、大きな氏神の社殿のある境内・・神聖な場所なのだ・・には踊りの屋台が作られたりする。家庭の生活はどこでも安穏を旨としているらしい。それだから表だって喧嘩などもないし、怒鳴ったりの罵声もないし、泣くこともなければ叱言も聞かれない。虐待は家畜に対しても見られないようで、町に出てくる百姓さんが自分の牛や馬に根気よくよりそっててくてく歩く、そしてこの口のきけない相手の荷物運搬を手伝い、鞭や突棒などな使わないのである。・・何百年もの間盗難事件など一度もあったことのない地方に私は住居したことがある。・・明治になって新しく刑務所を造ったところがいつもがらあきで用がなかった。・・・そこでは住民は夜も昼も戸締りをしなかった、こんなことはどの日本人にも耳新しいことではない。・・・」
明治維新の蛮行・・その9
・柳田國男も日本民族の数千年の行為を再度顧みることが必要と論じました。「同胞国民の多数者の数千年間の行為と感想と経験とが、かつて観察し記録しまた攻究せられなかったのは不当だということと、今後の社会改造の準備にはそれが痛切に必要であるということとは、少なくとも実地をもってこれを例証しているつもりである。(山の人生)」「天神の山には祭ありて獅子踊あり。ここにのみは軽く塵たち紅き物いささかひらめきて一村の緑に映じたり。獅子踊というは鹿の舞なり。鹿の角をつけたる面を被かぶり童子五六人剣を抜きてこれとともに舞うなり。笛の調子高く歌は低くして側かたわらにあれども聞きがたし。日は傾きて風吹き酔いて人呼ぶ者の声も淋さびしく女は笑い児こは走れどもなお旅愁をいかんともする能あたわざりき。盂蘭盆うらぼんに新しき仏ある家は紅白の旗を高く揚あげて魂たましいを招く風ふうあり。峠の馬上において東西を指点するにこの旗十数所あり。村人の永住の地を去らんとする者とかりそめに入りこみたる旅人とまたかの悠々たる霊山とを黄昏は徐に来たりて包容し尽したり。遠野郷には八ヶ所の観音堂あり。一木をもって作りしなり。この日報賽ほうさいの徒多く岡の上に灯火見え伏鉦ふせがねの音聞えたり。道ちがえの叢くさむらの中には雨風祭あめかぜまつりの藁人形わらにんぎょうあり。あたかもくたびれたる人のごとく仰臥ぎょうがしてありたり。以上は自分が遠野郷にてえたる印象なり。(遠野物語)」
・江戸期までは胞衣信仰もありました。胞衣塚はいたるところにありました。恵那山は天照大神の胞衣を埋めたところと伝えられています。明治維新で禁止された修験道はまさにそれまでの神仏一体の日本人の精神生活の基盤を表すものでした。自然と人間(父母所生の肉身)はともに法身(神仏)であるとしていました。先の胞衣についても修験者の笠(斑蓋)は胞衣をあらわし修験者が胎児として胞衣にいだかれ、障難から免れるという「胞衣」信仰をのこしていました。
・以上のように江戸期までに日本人は「目に見えないもの」を大切にして、非常に丁寧にきめ細やかに人生を送ってきました。これを明治政府は一気に破壊しました。
明治維新の蛮行・・その10
明治の傑僧釈雲照は明治維新以降「外尊内卑の風潮日を追って甚だしく思想の混沌の境に陥る。今日にして是を救うにあらざれば国運危殆に赴かん、実に測るべからざるものあり」として之を救うためには「列聖の遺訓を奉じ皇道の大儀を明らかにせんのみ。皇道の大義とは実に神儒仏三道の融会なり。」と言っています。
釈雲照『日本国民教育の本義』「我が皇国は天祖天照大神の神勅に依りて建てられたる国である。しかるに明治維新以後、泰西の政治・宗教・文学・美術・科学・工芸・言語・風俗等雑然として渡来し、加えるに外尊内卑の風潮日を追って甚だしく思想の混沌の境に陥る。今日にして是を救うにあらざれば国運危殆に赴かんと、実に測るべからざるものあり。この危機に際していかにすべきか、従来の如く盲目的に外国の文物を模倣する迷妄を打破し、まず確固たる国民的自覚の上に立ち、以て外来文物の精神を同化すべきなり。しからばその国民的自覚とはなんぞや。・・他なし神儒佛なり。我が皇道の起源は唯一の神道なりしこと信じて疑わず、然れども支那の文物三韓の地を経て輸入せらるるにおよび儒教また我が国に同化せられ能く君臣の分を明らかにし、上下の礼を弁じ、その後更に仏教渡来し、聖徳太子、勝鬘經、維摩経、法華経を講じられ、疏を製し、更に太子は先代旧事本紀等数百巻を製し、また勅を奉じて憲法を製し、神儒仏を混成して唯一の皇道を翼賛したまえり。天壌無窮の国体は実に太子によりて固められたり。一七条憲法の「二曰、篤敬三寶。々々者佛法僧也。則四生之終歸、萬國之禁宗。何世何人、非貴是法。人鮮尤惡。能従之。其不歸三寶、何以直枉。(二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか柱かる直さん。)」応神天皇の勅に「得道以来、八正道を示して苦の衆生を救う」と宣らせたまえる(神皇正統記に「・・八幡と申す御名は御託宣に「道を得てよりこのかた、法性(ほっしょう)を動かさず。八正道を示して、権迹(ごんじやく)を垂る。皆な苦の衆生を解脱することを得たり。この故に八幡大菩薩と号す」とあり。 八正(はちしょう)とは、内典に、正見(しょうけん)・正思惟(しょうしゆい)・正語(しょうご)・正業(しょうごう)・正命(しょうみょう)・正精進(しょうしょうじん)・正定(しょうじょう)・正恵(しょうえ)、これを八正道と云ふ。 凡そ心、正なれば身口(しんく)は自ら清まる。三業に邪まなくして、内外真正なるを諸仏、出世の本懐とす。神明の垂迹もまたこれがためなるべし。 また八方に八色の幡(はた)を立つることあり。密教の習ひ、西方阿弥陀の三昧耶形(さんまやぎょう=仏の徳の形象)なり。 その故にや行教和尚には(=八幡が)弥陀三尊の形にて見えさせ給ひけり。光明(=八幡の姿が)、袈裟の上に移らせましましけるを頂戴して、男山には安置し申しけりとぞ。神明の本地(=仏)を云ふことは確かならぬ類ひ多けれど、大菩薩の応迹(おうじやく=垂迹)は昔より明らかなる証拠おはしますにや。」とあり)は仏教真如無我の真理によらざれば何を以てか我が神道正直の道を翼ることを得ん、との聖意に他ならず。是より以降世々の聖帝は三宝を尊崇して国家道徳の基本を扶植し、、実に四海一家の美風を為したまえり。加えるに弘法大師、いろは歌を制作し以て国字を定め、以て仏教四諦無我の真理を薫染し、解脱因縁を結ばしめしより以来、普天の下、卒土の賓、遍くその恩徳を被り、降って武家時代に至りては、皇道と仏教との結晶発して武士道と称する花となり、我が国民精神に更に新勢力を加えるにいたりたり。以上の如く論じきたれば、我が皇道とは神儒仏三道の融合し結晶して成りしもの。神道のみをもって皇道と称するは身体のみを知って精神の存在をしらざるの見解なり。・・皇国固有の神道と仏道とは微妙不可思議の融合を為し、以て一種特別渾然たる大精神の成立せるこれ実に我が皇國の皇道ならずや。一心真如界のなかには神仏の二名なきのみならず、実相般若皆空無所得の真理を聞くときは天魔、邪神もまた正神に帰し、悪人匪徒も悉く正道に感化す。是、大宝、延喜等の世々の聖帝が維摩、法華、最勝等の諸経を転読して神法楽に供え、以て勅会の大祭となしたまいし所以なり。しかるに江戸時代一類の士族は宋儒の学に拠りて排佛説を鼓吹し、ついに維新の排佛となり、仏教忽ち衰退して国民の道義心殆ど地を払うに至りたり。況や盲目的に外国の文化を輸入し模倣して毫も省みることなき現今の国民は如何にしてか確固たる国体の柱石たりうべきや・・。それ国家の前途を如何せん。これを救う唯一のみちあり。列聖の遺訓を奉じ皇道の大儀を明らかにせんのみ。皇道の大義とは実に神儒仏三道の融会なり。・・)
明治維新の蛮行・・その1、 梅原猛「歓喜する円空」「明治維新でつくられた新しい神は仏と共に古き神をも滅ぼした」
「円空は護法神を多く作って、日本の神々がすべて護法神となって仏法を護ることを願った(「飛州史」には円空の「我山岳に居て多年仏像を造り、其の地神を供養す」という言葉が残っています)、・・・(しかしその後、)仏法を排斥する神の学、国学というものが起こり、明治維新を迎える思想の原動力の一つとなり、明治新政府をして神仏分離・廃仏毀釈の政策を採らしめた。まさに円空の期待に反して神が仏を滅ぼしたのである。しかしその神は円空の言う、縄文時代の昔から日本にいる神々ではなく、新しく作られた国家という神であった。実はその新しい神は、仏とともに日本のいたるところにいた古き神をも滅ぼしたのである。そしてその新しき国家という神もまた、戦後を境にして死んでしまったのである。こうして日本は世界の国々の中でほとんどただ一つの、少なくとも公的には神も仏も失った国となったのである。
明治維新の蛮行・・その2。滝川政次郎『日本人の歴史』「廃仏毀釈は明治政府の犯した最大の罪悪であって日本社会における人心の頽廃、道義心の欠如はここに淵源を発している」
滝川政次郎『日本人の歴史』「・・廃仏毀釈は明治政府の犯した最大の罪悪であって日本社会における人心の頽廃、道義心の欠如はここに淵源を発している。仏教と絶縁した神道は原始信仰に戻らざるを得ないが、ドクトリンを持たない原始信仰は民俗学の対象とはなっても文明人の信仰とはなりえない。故に神仏の分離即ち信仰の喪失となって日本人はその人格の骨格を失い、道義心の基盤をなくしてしまった。明治政府をして神仏分離を行わしめた者は、平田神道派の人々である。平田篤胤は儒佛道は勿論、基督教まで研究した精力的な学者であるが、愛憎の強い、駆け引きの上手な大山師であって、変説・剽窃を平気で行った。かれは白川家の勢力を藉って自己の勢力を神官の仲間に扶植するためにその学説を変え、自己の博識を衒うために伴信友の研究を剽窃した。さうして彼の剽窃に抗議した信友を人間の皮を被った畜生とののしっている。彼の養子鐵胤は彼に輪をかけたやうな狂信者で、地球は回転しても神国日本は不動であると頑張った。維新の際に暗躍した尊攘志士の中には、平田神道を奉ずるものが多かったので、維新以後かれらの鼻息は頗る荒く、政府部内においても強い発言権を持つた。慶応四年三月、佛教を極端に排斥するこれら狂信者は政府に迫って神仏分離の令を発せしめ、僧侶の神事にあずかるものは悉く還俗せしめ、権現社・神宮寺は社寺いずれかに分かち、社殿の鰐口・独鈷・梵鐘・仏殿の神像はいずれも撤去せしめ、日蓮宗の寺院においては三十番神をまつることを禁止した。・・奈良の興福寺においては大乗院・一乗院の僧侶は神仏分離令の発令と共に復飾して春日社に奉仕せしめられたたため興福寺は一時無住となり、什宝は四散し、五重塔は二百五十円の低価で売却せられた。祖父の語ったところによると同寺の什宝であった奈良時代の紺地金泥の写経を買い受けた人は金粉を得る為に今日ならば一寸万金に値する経巻を大釜の中に投げ込んでグラグラ煮たといふ。・・この暴挙によって滅んだ日本の古美術は今次の戦災によって滅んだ古美術よりも遥かに多かったのである。しかし古美術よりも惜しまるるべきものは、道昭・行基以来、幾多の高僧名知識の努力によって築き上げられてきた習合仏教の信仰が滅んだことである。・・徳川時代の空気を吸った人と現在の人との違ふ点は、勿体ないとか、冥加につきるとか、殺生だとかといふ言葉の意味が体得できているかどうかといふことである。・・かふいう言葉の意味がよくわかっている兵隊なら外地で戦っても残虐行為で軍事裁判にかけられることはまずあるまいと思われる。しかしいくら力んでみても一度失われた信仰は再びかえってこない。・・・」
明治維新の蛮行・・その3。「徳の象徴であった天皇を武力の象徴としたのが明治維新」(「日本古来の伝統と明治維新後の歪曲について(和辻哲郎)」)
「日本古来の伝統と明治維新後の歪曲について(和辻哲郎)」「明治維新が尊王攘夷の標語のもとに達せられながら幕府を倒した維新政府が直ちに幕府と同様の開国主義に転じたことは周知のとおりである。・・攘夷派の主張が結局討幕の為の策略に過ぎなかった・・。しかし攘夷のほうはともかくとして尊王の立場が維新後に持続され一層力強く主張されていったことも周知のとおりである。特に維新直後は平田派の国学者を中心として著しくファナテックな尊王主義者が勢力をもっていた。大教宣布の運動(明治3年1月3日(1870年 2月3日)に、天皇に神格を与え神道を国教と定め大日本帝国を祭政一致の国家とする詔書を出させた)などがその現れである。・・その結果として千数百年にわたる日本の歴史的伝統とは異なるさまざまな現象が天皇崇拝の立場と結びついて現れてきた。紀元節とか宮城とか大元帥とかいふものは皆そうである。・・これらは日本の古い歴史的伝統と係りがないばかりでなくむしろ歴史的伝統とは相いれない点を持つものである。・・
紀元節は明治5年の太陽暦採用に関連して明治6年から考え出されたことであってそれ以前の日本人はかって考えたこともなかった。・・続日本紀では巻二の大宝元年以降年はすべて元号を以て記しているがその後はずっと千二百余年後の昭和時代に至るまでその風が続いている。・・以上の如きが日本の伝統であって一一年の位置は天皇の名或いは元号と結びついて定まることになっている。神武天皇即位の年を紀元元年としそれを規準としてその後の年を数えるというようなことはわれわれの祖先のかって考えもせず況や実行もしなかったところである。・・維新政府が紀元節を重大視したのは・・明治維新が武力を以て達成されたといふことと関係のある問題である。・・聖徳太子の憲法とか大宝養老の律令とかに示された天皇統治の理想によると、天皇はあくまで徳を以て治むべきものであって武力の上に立つべきものではなかった。武力は国を守るに必要であるがしかし政治の手段とすべきものではなかった。・・しかし武力を以て幕府を倒した「武士」たちは・・天皇の統治の理想など顧みず、神武東征の伝説の主人公すなわち遠征軍の指揮者神武天皇を我が国の建国者として特別に重んずるという態度をとったのである。・・もし年数の通計を併せて記憶したいというのであるならばここに西暦を参照した方がはるかに便利である・・紀元節の設定が王政復古は王朝への復古でなく神武時代への復古であるという主張、すなわち天皇を軍隊の最高指揮者大元帥たらしめようとする思想と連関しているように、江戸城を皇居たらしめそれを「宮城」と称したことも天皇を将軍の位置に据え大元帥にふさわしい体制を取るということと密接に関連しているように思われる。・・「宮城」という言葉が皇居を意味するようになったのは明治初年特有の現象であって日本の古来の伝統にかってないことなのである。・・皇居は久しい間、内裏・禁裏・大内などと呼ばれていた。・・防備を施した城郭ではなくただの建築であった。・・御所としての根本の形態は全然無防備の木造建築であっって・・・(それ以降も)皇居と武将の居城とは日本においては意識的に区別されていた。・・・(江戸遷都により)武将の城、武備によって・・これらはあくまで権力を誇示する城が突如として皇居とされそれが続いている間にいつのまにか皇居が「宮城」に変質していった。この変質と同時に天皇の将軍化、大元帥化がおこなわれ天皇は軍服姿で国民の前に現れるようになった。これらはあくまで明治維新後の現象であってそれ以前千数百年にわたる日本の伝統には全然見られなかったことである。・・京都御所の担っている意味、即ちあくまでも「武備」を持たない、最高のみやびの場所としての内裏の意味は(武力闘争によって幕府を倒した新政府には理解できなかった)ので教えられなかった。・・」
明治維新の蛮行・・その4。「日本農士学校設立の趣旨(安岡正篤)」「明治政府の教育政策が卑屈な功利主義の国民を造ってしまった」
「日本農士学校設立の趣旨」「人間に取って教育ほど大切なもののないことは言ふまでもない。国家の命運も国民の教育の裡に存すると古人も申して居る。真に人を救ひ世を正すには、結局教育に須たねばならぬ。然るにその大切な教育は今日如何なるありさまであろうか。
今日の青年は社会的には悪感化を受けるばかりで、その上に殆ど家庭教育は廃れ、教育は学校に限られて居る。そして一般父兄は社会的風潮である物質主義功利主義に識らず識らず感染して、只管子弟の物質的成功、否最早今日となっては卑屈な給料取りたらしめんことを目的に(実は今日それも至難になってきて居る)力を竭して子弟を学校に通はせる。その群衆する子弟を迎へて学校は粗悪な工場と化し、教師は支配人や技師、甚だしきは労働者の如く生徒は粗製濫造された商品と化し、師弟の道などは滅び、学科も支離滅裂となり、学校全体に何の精神も規律も認めることが出来ない。その為に青年子弟は、何の理想もなく、卑屈に陥り、狡猾になり、贅沢遊惰に流れ、義理人情を弁へず、学問や道に対する敬虔の念を失ひ、男児に雄渾な国家的精神無く、女子に純潔な知慧徳操が欠けてしまった。これで我等民族、我等の国家は明日どうなるであろうか。更に一層深く考へると、なまなか文化が爛熟して、人間に燃える様な理想と之に伴ふ奮闘努力とが消滅し、低級な享楽と卑怯な荀安とを貪って、四の五の言ふ様になってしまうと、かかる階級は救済不可能である。平安の公家達も江戸の旗本御家人共もかくして滅んだ。匡房も嘆じ、吉宗も定信も焦ったのだが、終に如何とも出来なかったのである。かヽる時国家の新生命を発揚した者は、必ず頽廃文化の中毒を受けずに純粋な生活と確固たる信念とを持った質実剛健な田舎武士であった。今日も真底の道理には変化はない。この都会に群る学生に対して今日のような教育を施してゐて何になろう。国家の明日、人民の永福を考へる人々は是非とも活眼を地方農村に放って、此処に信仰あり、哲学あり、詩情あって、而して鋤鍬を手にしつと毅然として中央を睥睨し周章ず騒がず、身を修め、家を斉へ、余力あらば先ずその町村からして小独立国家にしたてあげてゆかうといふ土豪や篤農や郷先生を造ってゆかねばならない。是新自治(面白く言へば新封建)主義とも謂ふべき真の日本振興策である。これを軽薄な社会運動、職業的な教化運動とは全然異り、河井蒼竜窟の所謂地下百尺の所に埋まって、大事を為さうといふ国家鎮護、社稷永安の道業である。かくて金鶏学院開設以来四年我々は一面思を此処に潜めて、地方農村の蟠踞して国家維新の先覚者、重鎮的人物たるには如何なる学問教養勤労を励むべきかを研究し、その間更に我々の微志は日本の柱石たるべき各本面の国士の方々とも次第に交わりを結んできた。
時勢は最早一刻も偸安を許さぬ。我々は先ず自ら荀安を貪って空理空論して居るべきではない。茲に於いて我々は上述の覚悟を体現すべく、屯田式教学の地を武蔵相模の山沢に探ね、(何となれば此地方は鎌倉武士発祥の処で、武相の兵は天下に当るといはれたものであるから)遂に鎌倉武士の花と謳はれた畠山重忠館跡を択んで此処に山林田畑二十丁歩の荘園を設くるを得た。流石古英雄の卜した処だけあって地形、土質、風光共に得難い勝地である。私は此処に年来寝食を共にして勉道した五六の学人と共に、(日本農士学校)を設けて聊か平素の懐抱を実現してゆきたいと思ふ。昭和六年四月 」
明治維新の蛮行・・その5。「神社合祀に関する意見(南方熊楠)」「神社合祀は民の和融を妨げ地方の凋落を来たし人情風俗を害す大害あり」
「神社合祀に関する意見(南方熊楠)」「神社合祀は、第一に敬神思想を薄うし、第二、民の和融を妨げ、第三、地方の凋落を来たし、第四、人情風俗を害し、第五、愛郷心と愛国心を減じ、第六、治安・民利を損じ、第七、史蹟・古伝を亡ぼし、第八、学術上貴重の天然紀念物を滅却す。
当局はかくまで百方に大害ある合祀を奨励して、一方には愛国心、敬神思想を鼓吹し、鋭意国家の日進を謀ると称す。何ぞ下痢を停めんとて氷を喫くらうに異ならん。かく神社を乱合し、神職を増置増給して神道を張り国民を感化せんとの言なれど、神職多くはその人にあらず。おおむね我利我慾の徒たるは、上にしばしばいえるがごとし。国民の教化に何の効あるべき。かつそれ心底から民心を感化せしむるは、決して言筆ばかりのよくするところにあらず。支那に祭祀礼楽と言い、欧州では美術、音楽、公園、博物館、はなはだしきは裸体の画像すら縦覧せしめて、遠廻しながらひたすら一刻たりとも民の邪念を払い鬱憤を発散せしめんことに汲々たり。いずれも人心慰安、思慮清浄を求むるに不言不筆の感化力に須またざるべからざるを知悉すればなり。わが国の神社、神林、池泉は、人民の心を清澄にし、国恩のありがたきと、日本人は終始日本人として楽しんで世界に立つべき由来あるを、いかなる無学無筆の輩にまでも円悟徹底せしむる結構至極の秘密儀軌たるにあらずや。加之しかのみならず、人民を融和せしめ、社交を助け、勝景を保存し、史蹟を重んぜしめ、天然紀念物を保護する等、無類無数の大功あり。
しかるを支那の王安石ごとき偏見で、西湖を埋むるには別にその土泥を容るべき大湖を穿たざるべからざるに気づかず、利獲のみ念じ過ぎて神林を亡えば、これ田地に大有害の虫菑(ちゅうさい・荒地)を招致する所以ゆえんなるを思わず、非義饕餮(とうてつ・貪る者)の神職より口先ばかりの陳腐な説教を無理に聞かせて、その聴衆がこれを聞かぬうちから、はや彼輩の非義我慾に感染すべきを想わざるは無念至極なり。・・・」
明治維新の蛮行・・・その6、日本人の「魂・徳性」を否定し浅薄な「知識・技術」に走った。
(参考4、「人間教育をわすれた明治の失敗」安岡正篤
「・・明治・大正・昭和にかけての学校教育というものが残念ながら人間教育(人間の本質的要素である徳性も磨くこと)をお留守にしてしまった。専ら知識教育・技術教育になってしまったのであります。
明治時代はまだ旧幕府以来の余徳でいわば先祖の財産で暮らせたように、それほど弱点を出さなかった。馬脚を現さなかったのでありますが、しかしその間に、残念ながら「出来た人物」というの非情に乏しくなりました。専ら高利的・知識的な機械的な人物、才人、理論家が排出したわけであります。・・そこで第一次大戦で日本はほとんど犠牲らしい犠牲を払わずに戦争に便乗して大儲けをした、この時に・・明治から大正にかけての日本の退廃と堕落が一辺に噴出したのであります。・・昭和の初めになって「昭和維新(注、五・一五事件、二・二六事件等に代表される右翼運動)」ということが叫ばれるようになりました、・・ところが明治維新とちがったところは、中心人物たちが・・人間が練れておらぬ、見識とか器量とかいうものはできておらぬ、・・それが転じて満州に反映しました、・・このときに根本的教養の欠如というものがおおきな災いをいたしました。・・(安岡正篤「人間教育をわすれた明治の失敗」)・・」「・我々の民族的悲劇太平洋戦争敗戦の事実の依って来る原因を検討していくとき、この民族の悲劇の原因はまさに明治維新そのものに胚胎していることを発見する。・・明治維新が、封建制度を清算して鎖国の時代錯誤を解くという、正当な順序に出ることができないで、外国の圧力に屈し、鎖国の国策変更を迫られて封建制度を放棄せざるを得なかったのであるが、その革命を遂行するに際し、どうしても首尾一貫した指導理念を発見することができなかった。そのため尊王攘夷の革命理論は佐幕開国と争って勝ったけれども革命の後、直ちに尊王開国にその政策を変更せざるを得なかった。ここに明治維新の限界があった。この攘夷から開国への転換は、明治維新の最大の弱点であった。・・・このような徒なる明治維新の美化は大正・昭和の若き日本民族をしてその廉恥を失わしめ、生来の事大主義と機会主義とを一層不健康に肥大させる以外になにものにも貢献しなかった。太平洋戦争の原因も敗因もここに胚胎している。(明治維新の限界、吉田庸作)」
この論を現在に普遍すれば、「日本はすごいという根拠なき事大主義と今さえよければよければいいという刹那主義」を植え付けた明治維新の失敗は太平洋戦争原爆被災を経てさらに東日本大震災の世界に類のない大原発事故にまでつながっているといえましょう。
明治維新の蛮行・・その7
・「逝きし世の面影・渡辺京二」は幕末の西洋人の眼を通して、江戸期の日本がユートピアのような世界だったがそれが滅ぼされようとしていたことを証明しています。「逝きし世の面影・渡辺京二」「一つの文明が滅んだのである。一回かぎりの有機的な個性としての文明が滅んだのだ。それを江戸文明とよぶか徳川文明とよぶか、呼び名はどうでもいい。しかし、そのように呼びたくなるほど、われわれにとっての大きなもの、つまり文明が、いつしか喪失してしまったのだ。バシル・チェンバレン(東京帝国大学名誉教師)は「あのころー1750年から1850年ころーの社会はなんと風変わりな、絵のような社会であったか」と嘆声を発した。(イザベラバード(イギリス人女性旅行家)は江戸から日光まで人力車で旅をしたとき車夫達が一切余分な金銭を受け取らずそれどころろか野の花を摘んで渡してくれたと書いているようです。)安政5年に、日英修好通商条約を結ぶために来日したオリファントは「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、まったく驚くべき事実である」と書いた。・・ヒュースケン(ハリスの付き人)は「この国の人々の質朴な習俗とともに、その飾り気のなさを私は賛美する。この国土の豊かさを見、いたることろに満ちている子供たちの愉しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見出すことの出来なかった私は、おお神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が重大な悪徳を持ち込もうと しているように思われてならない。」といい、・・リュードルフ(1855下田に来港したプロシャ商船の乗組員)は「日本人は宿命的第一歩を踏み出した。しかし丁度自分の家の礎石を一個抜き取ったと同じでやがては全部の壁石が崩れ落ちることになるであろう。そして日本人はその残骸の下に埋没してしまうであろう。」・・・異邦人たちが予言しやがて目撃し証言することになった古き日本の死は‥一つの全体的関連としての有機的生命、すなわち一つの個性を持った文明の滅亡であった。」その江戸期までの日本文明の個性とは、「日本には「親和力」があったということ(荒野に立つ虹・渡辺京二)」のようです。この「親和力」は、神仏一体の壱千年の日本人の信仰生活以外からは生じようがありません。神仏分離・国家神道を推し進めた明治政府によりこの「親和力」はみごとに崩壊させられて今日の混乱に至っているといえます。
明治維新の蛮行・・その8
・夏目漱石も明治の「精神的困憊・道徳の敗退」を批判していました。「精神の困憊と身体の衰弱とは不幸にして伴っている。のみならず道徳の敗退も一緒に来ている。日本国中何所を見渡したって輝いている断面は一寸四方も無いじゃないか。(「それから」)」。日本人は江戸期までは人生を丁寧に丁寧に生きていたようです。例えば杉本鉞子(すぎもと えつこ、1873年(明治6年)- 1950年(昭和25年)6月20日)『A Daughter of the Samurai(武士の娘)』はアメリカで初の日本人ベストセラー作家。コロンビア大学の初の日本人講師)が回想する長岡藩家老稲垣家の盆行事を「逝きし世の面影・渡辺京二」で引用しています。「数日前から準備が始まる。庭木生垣を刈りそろえ庭石を洗い、床下まで掃き清める。・・仏壇は行事の中心である。当日爺やは夜が明けぬうちに蓮池へ降りてゆく。これは朝日が差し始める光と共に華が開くからである。仏壇には茄子や胡瓜で作った牛馬が供えられ、蓮の葉に野菜が盛られる。女中が盆灯篭を高々と掲げる。・・黄昏には一家そろって大門のところで、二列に分かれて精霊を待つ。街中が暗く静まり返り、門ごとに焚く迎え火ばかり。・・ひくく頭を垂れていますと待ちわびていた父の魂が身に迫るのを覚え、遥か彼方から蹄の音が聞こえて白馬が近つ゛いてくるのが判るようでございました。・・」。
・ラフカデオハーン「神国日本」によれば、以前、日本の家庭は無数の神様、仏様のおられる神聖な場所でした。又職業も神様に見守られていました。「・・日本人は、その職業がなんであるにしろどの神かが(その職業を)支配していた。どんな道具を使用するにしろその道具はその技芸技術の祭祀に加入している人たちに許されている慣習に従っての作法通りの使用法で用いなければならなかった・・・」「・・日本の外見上の不思議さには結局美しさが充ち溢れていることがわかるのだが、それと同様その内面的な不思議さの中にもそれ自体の美しさがあるように思われる。・・それは庶民の日常生活に反映している道徳的な美しさなのである。こうした庶民生活の魅力に富む部分は・・こうした外国人が・・半年か一年日本内地のどこか古風な町に住んだと考えてみよう。その滞在のそもそも初めから彼の周囲に生活している人たちが如何にも親切で楽しそうな様子に深い印象を受けずにはおれまい。・・だれもかれもがお互いに仕合せそうな顔をして楽しそうな言葉で挨拶をしあっている。にこにこ顔をはなすことがない。・・いつどんな場合にもそとに表れる快活さだけは決してなくならない。つまりどんな災難が・・暴風雨や火災、洪水や地震があっても挨拶しあう笑い声、明るい笑顔に丁寧な会釈、心からの慰問にお互いをよろこばせたいという気持がいつも人の世を楽しいものにしようとしている。宗教もこの日の光のような明るさの中では暗い影を持ち込まない。そこで神様や仏様の前で人々はお祈りを捧げながらもにこやかである。寺院の境内は子供たちの遊び場であり、大きな氏神の社殿のある境内・・神聖な場所なのだ・・には踊りの屋台が作られたりする。家庭の生活はどこでも安穏を旨としているらしい。それだから表だって喧嘩などもないし、怒鳴ったりの罵声もないし、泣くこともなければ叱言も聞かれない。虐待は家畜に対しても見られないようで、町に出てくる百姓さんが自分の牛や馬に根気よくよりそっててくてく歩く、そしてこの口のきけない相手の荷物運搬を手伝い、鞭や突棒などな使わないのである。・・何百年もの間盗難事件など一度もあったことのない地方に私は住居したことがある。・・明治になって新しく刑務所を造ったところがいつもがらあきで用がなかった。・・・そこでは住民は夜も昼も戸締りをしなかった、こんなことはどの日本人にも耳新しいことではない。・・・」
明治維新の蛮行・・その9
・柳田國男も日本民族の数千年の行為を再度顧みることが必要と論じました。「同胞国民の多数者の数千年間の行為と感想と経験とが、かつて観察し記録しまた攻究せられなかったのは不当だということと、今後の社会改造の準備にはそれが痛切に必要であるということとは、少なくとも実地をもってこれを例証しているつもりである。(山の人生)」「天神の山には祭ありて獅子踊あり。ここにのみは軽く塵たち紅き物いささかひらめきて一村の緑に映じたり。獅子踊というは鹿の舞なり。鹿の角をつけたる面を被かぶり童子五六人剣を抜きてこれとともに舞うなり。笛の調子高く歌は低くして側かたわらにあれども聞きがたし。日は傾きて風吹き酔いて人呼ぶ者の声も淋さびしく女は笑い児こは走れどもなお旅愁をいかんともする能あたわざりき。盂蘭盆うらぼんに新しき仏ある家は紅白の旗を高く揚あげて魂たましいを招く風ふうあり。峠の馬上において東西を指点するにこの旗十数所あり。村人の永住の地を去らんとする者とかりそめに入りこみたる旅人とまたかの悠々たる霊山とを黄昏は徐に来たりて包容し尽したり。遠野郷には八ヶ所の観音堂あり。一木をもって作りしなり。この日報賽ほうさいの徒多く岡の上に灯火見え伏鉦ふせがねの音聞えたり。道ちがえの叢くさむらの中には雨風祭あめかぜまつりの藁人形わらにんぎょうあり。あたかもくたびれたる人のごとく仰臥ぎょうがしてありたり。以上は自分が遠野郷にてえたる印象なり。(遠野物語)」
・江戸期までは胞衣信仰もありました。胞衣塚はいたるところにありました。恵那山は天照大神の胞衣を埋めたところと伝えられています。明治維新で禁止された修験道はまさにそれまでの神仏一体の日本人の精神生活の基盤を表すものでした。自然と人間(父母所生の肉身)はともに法身(神仏)であるとしていました。先の胞衣についても修験者の笠(斑蓋)は胞衣をあらわし修験者が胎児として胞衣にいだかれ、障難から免れるという「胞衣」信仰をのこしていました。
・以上のように江戸期までに日本人は「目に見えないもの」を大切にして、非常に丁寧にきめ細やかに人生を送ってきました。これを明治政府は一気に破壊しました。
明治維新の蛮行・・その10
明治の傑僧釈雲照は明治維新以降「外尊内卑の風潮日を追って甚だしく思想の混沌の境に陥る。今日にして是を救うにあらざれば国運危殆に赴かん、実に測るべからざるものあり」として之を救うためには「列聖の遺訓を奉じ皇道の大儀を明らかにせんのみ。皇道の大義とは実に神儒仏三道の融会なり。」と言っています。
釈雲照『日本国民教育の本義』「我が皇国は天祖天照大神の神勅に依りて建てられたる国である。しかるに明治維新以後、泰西の政治・宗教・文学・美術・科学・工芸・言語・風俗等雑然として渡来し、加えるに外尊内卑の風潮日を追って甚だしく思想の混沌の境に陥る。今日にして是を救うにあらざれば国運危殆に赴かんと、実に測るべからざるものあり。この危機に際していかにすべきか、従来の如く盲目的に外国の文物を模倣する迷妄を打破し、まず確固たる国民的自覚の上に立ち、以て外来文物の精神を同化すべきなり。しからばその国民的自覚とはなんぞや。・・他なし神儒佛なり。我が皇道の起源は唯一の神道なりしこと信じて疑わず、然れども支那の文物三韓の地を経て輸入せらるるにおよび儒教また我が国に同化せられ能く君臣の分を明らかにし、上下の礼を弁じ、その後更に仏教渡来し、聖徳太子、勝鬘經、維摩経、法華経を講じられ、疏を製し、更に太子は先代旧事本紀等数百巻を製し、また勅を奉じて憲法を製し、神儒仏を混成して唯一の皇道を翼賛したまえり。天壌無窮の国体は実に太子によりて固められたり。一七条憲法の「二曰、篤敬三寶。々々者佛法僧也。則四生之終歸、萬國之禁宗。何世何人、非貴是法。人鮮尤惡。能従之。其不歸三寶、何以直枉。(二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか柱かる直さん。)」応神天皇の勅に「得道以来、八正道を示して苦の衆生を救う」と宣らせたまえる(神皇正統記に「・・八幡と申す御名は御託宣に「道を得てよりこのかた、法性(ほっしょう)を動かさず。八正道を示して、権迹(ごんじやく)を垂る。皆な苦の衆生を解脱することを得たり。この故に八幡大菩薩と号す」とあり。 八正(はちしょう)とは、内典に、正見(しょうけん)・正思惟(しょうしゆい)・正語(しょうご)・正業(しょうごう)・正命(しょうみょう)・正精進(しょうしょうじん)・正定(しょうじょう)・正恵(しょうえ)、これを八正道と云ふ。 凡そ心、正なれば身口(しんく)は自ら清まる。三業に邪まなくして、内外真正なるを諸仏、出世の本懐とす。神明の垂迹もまたこれがためなるべし。 また八方に八色の幡(はた)を立つることあり。密教の習ひ、西方阿弥陀の三昧耶形(さんまやぎょう=仏の徳の形象)なり。 その故にや行教和尚には(=八幡が)弥陀三尊の形にて見えさせ給ひけり。光明(=八幡の姿が)、袈裟の上に移らせましましけるを頂戴して、男山には安置し申しけりとぞ。神明の本地(=仏)を云ふことは確かならぬ類ひ多けれど、大菩薩の応迹(おうじやく=垂迹)は昔より明らかなる証拠おはしますにや。」とあり)は仏教真如無我の真理によらざれば何を以てか我が神道正直の道を翼ることを得ん、との聖意に他ならず。是より以降世々の聖帝は三宝を尊崇して国家道徳の基本を扶植し、、実に四海一家の美風を為したまえり。加えるに弘法大師、いろは歌を制作し以て国字を定め、以て仏教四諦無我の真理を薫染し、解脱因縁を結ばしめしより以来、普天の下、卒土の賓、遍くその恩徳を被り、降って武家時代に至りては、皇道と仏教との結晶発して武士道と称する花となり、我が国民精神に更に新勢力を加えるにいたりたり。以上の如く論じきたれば、我が皇道とは神儒仏三道の融合し結晶して成りしもの。神道のみをもって皇道と称するは身体のみを知って精神の存在をしらざるの見解なり。・・皇国固有の神道と仏道とは微妙不可思議の融合を為し、以て一種特別渾然たる大精神の成立せるこれ実に我が皇國の皇道ならずや。一心真如界のなかには神仏の二名なきのみならず、実相般若皆空無所得の真理を聞くときは天魔、邪神もまた正神に帰し、悪人匪徒も悉く正道に感化す。是、大宝、延喜等の世々の聖帝が維摩、法華、最勝等の諸経を転読して神法楽に供え、以て勅会の大祭となしたまいし所以なり。しかるに江戸時代一類の士族は宋儒の学に拠りて排佛説を鼓吹し、ついに維新の排佛となり、仏教忽ち衰退して国民の道義心殆ど地を払うに至りたり。況や盲目的に外国の文化を輸入し模倣して毫も省みることなき現今の国民は如何にしてか確固たる国体の柱石たりうべきや・・。それ国家の前途を如何せん。これを救う唯一のみちあり。列聖の遺訓を奉じ皇道の大儀を明らかにせんのみ。皇道の大義とは実に神儒仏三道の融会なり。・・)