福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験・・・23

2018-10-23 | 四国八十八所の霊験
27番神峰寺から野市を経て28番大日寺までおよそ四十㌔あります。17年の遍路では神峰寺の麓で泊まった遍路宿「きんしょう」の女将さんがあとから車でおいかけて来て途中の野市まで乗せてくれました。おかげで1日分助かりました。予約していた遍路宿を過ぎてしまったので断りの電話を入れました。歩き遍路なのにこういう時ほっとするのはどうも修行が足りません。他のときは電車で行くことが多いのです。

28番大日寺は小高い山の中腹にあります。17年には工事中であった本堂がその後新築されすがすがしい雰囲気です。澄禅「四国遍路日記」には「山のすこし高き所に在り。本堂南向き、本尊金剛界大日如来、是も太守(山内忠義1609~1669)より近き修理あり。四間四面に堅固に奇麗なる作なり」とあります。
今も行基菩薩作のこの大日如来様(国重文)が安置され、脇仏は二体の観音様です。大同年間に弘法大師が巡錫されて楠に薬師如来を刻まれましたがこれは「爪彫薬師」として二百㍍先へのぼった納経所のすぐ上の奥ノ院に安置されています。
最初の時は寺族の方が「僧侶の方ですか?」といいつつ親切に奥の院を案内してくださいました。病気平癒はこの奥の院のお薬師様に祈願し、成就したものは穴の開いた石を納めることになっています。お堂の縁の下はお礼の穴の開いた石がいっぱい積みあがっていました。
これだけ数え切れない人々がお蔭を頂いているのです。  わたしも縁者の鬱病の快癒を祈願しその後見事治していただきました。私も穴の開いた石をここに奉納しようと長年探してきましたが三年以上たってやっと小さいながら真ん中に穴の開いた石を発見しました。不思議なことに高野山の我が家の墓地の白い敷石のなかにあったのです。出来るだけ早く此の石をもってお礼に行こうと思っています。

28番から29番国分寺へは9キロくらいしかありませんが、1回目遍路の17年には道を間違えフラフラになったので18年の2回目は慎重に道しるべを確認しつつ歩きました。 29番国分寺近くには「地蔵渡」というところがあり大きなお地蔵様が川面を見守っておられます。2回目のお遍路のときはこのお地蔵様に1年ぶりにお会いしてなんともいえず懐かしい気がしました。

29番国分寺はこんもりとした樹木におおわれ、その周囲には往時を物語る土壇が残っています。行基菩薩が、本尊千手観世音を刻み天平十三年(七四一)に開創、聖武天皇は「金光明四天王護国之寺」の勅額を授けられたといいます。

後にお大師様が毘沙門天を刻まれて奥ノ院へ安置し、本堂で厄除を祈られ、星供の秘法を勤修されています。以来星供の根本道場といわれ、大師像は、星供大師といわれています。

澄禅「四国遍路日記」には「本堂東向き、五間四面、本尊千手観音也、摩尼山院と号す、宝蔵院なり、寺家六坊あり、近年堂塔破損したるを太守(山内忠義)修理したまふ、其の普請中にて大工数十人居たり、寺主は六十ばかりの僧なり。」とあります。当時(1653)から隆盛を誇っていたと思われます。

境内は今でも広く、手入れがいきとどき、静かで杉苔がきれいです。ここではいつも杉苔と本堂の間に座り理趣経をあげることとしています。ここの苔庭は私の生家の寺の苔庭を思い出させて感無量になります。

29番国分寺から約11km で30番善樂寺です。手ごろな距離ですがなぜか意外と疲れます。善樂寺への途中には「へんろ小屋第5号蒲原」と云うまだ新しい遍路小屋がありました。道路の拡張部分に作られていました。近所の会社が維持管理をしてくれているようでした。土地も地元の地主の好意で建てられているようでした。なかには記帳ノートがあり「一度死のうと思った人生。死ぬ気で回って見せる。足のいたみ何か逆に気持ち良くしてやる。死にたいきもちをころしてやる。死ぬ気で残りの人生楽しんでやる。何でもできる。みんながいるから。(10月12日)」という書付もありました。


四国には多くの遍路小屋があります。
なかには冷たいジュース、果物、お菓子、濡れタオルなどがおいてあるところもあります。途中で知り合いになった方が偶然にこういう遍路小屋をつくっている「へんろみち保存協力会」の方でした。ボランテアで遍路小屋つくりに力をいれておられるということでした。このかたとは後々まで交流が続きました。13番大日寺手前の「おやすみなし亭」などは、なかに冷たいジュースや果物などおいてあり至れり尽くせりの遍路小屋でした。お礼に納札をおいてきますがそれだけで好意にこたえきったとはとてもいえません。 お礼にできる限り遍路道のごみを拾いつつあるいています。(捨てる場所に苦労しますが・・・)そして路傍のお地蔵様や神社、祠のまえでは必ず「この前を通る人すべてが幸せになりますように」と拝んでいくことにしています。

30番善樂寺は弘法大師が土佐一ノ宮の別当寺として建立され以来、一ノ宮別当寺として法灯を維持してきました。澄禅「四国遍路日記」にも「一宮」として、「南向、本地阿弥陀如来、高殿楼閣鳥居まで高大広博なる大社なり。前太守長曾我部殿修造せられたる侭なり。・・山号は百々山、社僧神宮寺観音院とて両寺有。」としています。しかし明治の廃仏毀釈で廃寺となりました。昭和四年、三十番善楽寺を復興し、それまで三十番札所の代行を務めていた安楽寺は現在三十番奥ノ院となっています。此処はお参りする時はだいたい雨になります。2回目の時にはエストニアから来たという徒歩遍路の2メートル位の青年と小雨の境内で話しました。野宿で周っているといいます。大変汗をかいていたのでジュースのお接待をしました。青年にお四国に来た理由を尋ねると「インターネットで調べたら一番長い巡礼の道だったから」といいました。単純な理由です。しかし感心なことにちゃんと白衣を着ていました。私が先に歩きはじめたのですが後から来た此の青年はあっというまに一陣の風とともに追い抜いていきました。コンパスが2倍くらい違うのですからしかたありません。それにしても四国も外人遍路が多くなっていることに感慨を覚えるとともに日本人もしっかりしなくてはといつも思わされます。
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