史料綜覧 巻五 / 文永十一年(1274)十一月二日条
「二日 亀山上皇 御書ヲ山陵八所ニ献ジ 延暦寺 東寺ヲシテ 異国降伏ノ祈禱ヲ修セシメラル」
10月5日には蒙古軍が対馬に上陸。10月20日 には博多に上陸していましたから必死の祈願だったと思います。
八幡愚童訓には
「文永十一年1274十月五日の申の時に対馬の西面差浦に異国の船四百五十艘三万人乗連て寄来たる。同日の酉の刻に国府の地頭所に着く、則ち地頭、宗右馬介助圀、八十余騎にて同丑の刻ばかりに彼の浦に行き着いて、翌日卯の刻に通人に真継男を使者にして蒙古人に事の子細を相尋るところに、散々に船より射る上、七,八艘より降り立つ勢一千人ばかりなり。その時
宗右馬介,陣を取って戦う。その矢に中る異国人数知れず。この中に大将軍とおぼしきもの四人は乗馬なり。葦毛なる馬に乗りて一番に駆け向かう。宗右馬次郎に右の乳の上を射させて馬より逆さに落つ。弥次郎・ 右馬介に射られて死するもの数十人。 宗右馬介戦うと雖も辰の終わりに打たれぬ。同子息宗右馬次郎、養子弥次郎、ならびに右馬介、同八郎、親類刑部丞、郎党三郎右馬介、兵衛次郎、庄の太郎入道、源八、以上十二人同時に討死す。蒙古差の浦に火をかけて焼き払う由、宗右馬介助が郎党小太郎・兵部次郎を以て博多に注進す。」とあります。
猶亀山上皇は「弘安の御願」で有名です。「弘安の御願」とは元寇に際し亀山上皇が「わが身に替えて日本国を護ってください」と伊勢神宮へ祈願されたことです。
「弘安の御願」の根拠は、
「増鏡」に「弘安も四年になりぬ。・・・其比、蒙古起こるとかやいひて、世の中騒ぎたちぬ。色さまざまに恐ろしう聞こゆれば、本院〔後深草〕・新院〔亀山〕は東へ御下りあるべし。内〔後宇多〕・春宮〔伏見〕は京にわたらせ給て、東の武士ども上りてさぶらふべし」など沙汰ありて、山々寺々に御祈り、数知らず。伊勢の勅使に、経任大納言まいる。新院も八幡へ御幸なりて、西大寺の長老〔叡尊〕召されて、真読の大般若供養せらる。太神宮へ御願に、「我御代にしもかかる乱れ出で来て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき」よし、御手づから書かせ給ける(院政の亀山上皇であるとされてきている)を、大宮院(後嵯峨天皇の中宮・亀山帝の母・後宇多の祖母)、「いとあるまじき事なり」と、なほ諫めきこえさせ給ふぞ、ことわりにあはれなる。東にも、いひしらぬ祈りどもこちたくののしる。故院〔後嵯峨〕の御代にも、御賀の試楽の頃、かかる事ありしかど、程なくこそしづまりにしを、この度はいとにがにがしう、牒状とかや持ちて参れる人など有て、わづらはしうきこゆれば、上下思ひまどふ事かぎりなし。されども、七月一日〔閏七月一日〕、おびたたしき大風吹て、異国の舟六万艘、つは物乗りて筑紫へよりたる、みな吹破られぬれば、或は水に沈み、をのづから残れるも、泣く泣く本国へ帰にけり。・・・さて為氏の大納言、伊勢の勅使のぼるみち、申をくりける。
勅として祈るしるしの神風によせくる浪はかつくだけつつ
かくて静まりぬれば、京にも東にも、御心ども落ちゐて、めでたさかぎりなし。」とあることに依ります。
猶、
福岡市の博多区東公園の「亀山上皇銅像」は、十三世紀後半の元寇の際に亀山上皇が「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国降伏を折願された故事を記念して、福岡県警務部長(現在の警察署長)だった湯地丈雄等の十七年有余の尽力により、明治三十七年、元寇ゆかりのこの地に建立されています。原型の制作者は、当時高村光雲下で活躍していた福岡出身で博多櫛田前町生まれの彫刻家山崎朝雲で、亀山上皇像はその代表作のひとつ。
また、台座に書かれた「敵国降伏」の文字は、初代福岡県知事有栖川宮熾仁(たるひと)親王の筆です。
参考までに、敵国降伏といえば、
福岡筥崎宮には亀山天皇御宸筆の「敵国降伏」の額が掲げられています。
なおこの「敵国降伏」は徳に由り敵を降参させることという説があります。「『敵國降伏』と『降伏敵國』とは自他の別あり。敵國の降伏するは徳に由る、王者の業なり。敵國を降伏するは力に由る。覇者の事なり。『敵国降伏』而る後、初めて神威の赫赫、王者の蕩々を看る。(福本日南『筑前志』)」
しかしこうした亀山帝の身を捨てての祈願のあと、南朝はしばらくして絶えてしまいます。後宇多法皇・後醍醐天皇等英邁な天皇を輩出しながらなぜと思っていましたが、この弘安の御願により我が身を日本国の安寧の為に捧げられたために南朝が絶えることになったのかもしれないと最近思いつきました。ますます恐れ多いことです。