結論。經典に説く種々の御利益は自己成就的予言であるとともに世界成就的予言でもあること。
1,「予言の自己成就」。「予言の自己成就」とは、根拠のない噂や思い込みであっても、個人や集団がその状況が起こりそうだと考えて行動することで、事実ではなかったはずの状況が本当に実現してしまうことと言われています。アメリカの社会学者W・I・トマスが説いた「もし人がその状況を真実と決めれば、その状況は結果において真実である」という定理を基にアメリカの社会学者ロバート・K・マートンが展開した理論とされます。
2,この理論だけでは當に没価値的ですが以下の様に色々考えてみると分かります。
・理趣経を習う前に僧侶は理趣経加行という行をしますがこの中でも千回大師寶号をおとなえします。他の密教の修法でもご本尊の明(呪)は毎座千回お唱えするのが通例です。これはなぜか?
・金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇經でも「金剛頂最勝真実大三昧耶の真言を・・百八誦せば能く百劫の罪を滅せむ、千遍を誦せば能く意願を成満せむ、若し一洛叉(10万)を誦せば大金剛の身を得ん、若し一倶胝(1千万)を誦せば遍照尊と成ることを得て千仏きたりて守護せん事決定して疑いあるべからず」とあります。
・そして又経典には仏様の有難い種々の御利益を列挙しています。般若心経には「能除一切苦」、観音經には「能滅諸有苦」、虚空蔵菩薩能満諸願最勝秘密陀羅尼義経には「一切の所願満足なしとせず。一切の苦悩病患ことごとく銷除」、佛説薬師秘密神呪経には「衆病悉除、身心安楽」等です。そしてこういう経典を何度も読誦して頂いた功徳は古来枚挙にいとまがありません。
・しかし一方人々は御利益に預かれなくて苦しみ続けてきたことも事実です。法然上人「百四十五箇条問答」には「一。申候事のかなひ候はぬに、仏をうらみ候、いかが候。」
夢中問答集(無窓疎石)には「問、佛菩薩は皆一切衆生の願を満たし給はんといふ誓ひあり。・・・しかるに心を尽くして祈れどもかなふことの稀なることは何ぞや?」等と昔から人々は拝んでもお陰を戴けない・・と高僧に訴えていたことが分かります。
これ等の問に対し、法然上人は「縁により信のありなしによりて利生はあり」と答え、無窓疎石は「しるしなきことこそ、しるしなり」と言います。しかしこれらの高僧の御言葉にも拘わらず現在に至るまで無数の人々が苦しみ悩みのたうち回ってきたことも確かです。
- しかし中には厳しい逆境を見事に切り開いた例もあります。
・幼少期壊疽で両手両足を切り取られた中村久子氏は見世物小屋に売り飛ばされ4度の離婚も経ながら裁縫などで生計を立て、子供も立派に養育します。ヘレンケラーにも会い、ケラーをして「私より不幸な人、私より偉大な人」と言わしめています。全国を講演し身障者等に大きな力を与え、厚生大臣賞を受賞。地元高山の初代身障者福祉協議会長となります。久子は浄土真宗の門徒で幼少期から常に「南無阿弥陀佛」を無数にお唱えしてきています。
・幼年期に狂人に両手を切り落とされた大石順教尼はカナリヤが嘴で雛に餌をやる光景を見て口で書道を始め口筆写経が日展に入選し其の後身障者の相談所「自在会」を設立したり、高野山で得度して尼僧となり塔頭寺院・佛光院を建立しています。順教尼の場合は大師信者になり無数に「南無大師遍照金剛」とお唱えしてきました。
・那須政隆師(大正大学学長、真言宗智山派管長)「真言宗における加持祈祷の一考察」には
「真言祈祷の真の意としては、本不生空に住することが肝要であって、その天地に至ればもはやすべてが霊験として受け入れられ、そこでは霊験の有無は問題とならないのである。真に祈祷するものは(拝むものは)本不生空の不可思議によって一切に自由なることを得て霊験の有無に煩う心を超絶することとなる。・・七難九厄即滅の祈祷は七難九厄という客観的状態を消滅するということよりは、むしろ七難九厄という状態に遭ってもそれを危難と感じない霊力を獲得することであり、七難九厄をも霊験として受け入れるような生命力に恵まれることなのである。つまり祈祷する心に(祈る心に)霊験の有無を論じる余裕をもつようではまだ真の祈祷ではなく、したがって本不生空に徹することも不可能であって、到底霊験を感得し得ないのである。真の祈祷は、絶体絶命、自己の全生命を打ち込んでなされなければならない。もし真に迫って祈祷するならば自己の見執(狭いとらわれ/垢)を超えて如来に渉入し、如意満足の霊験を感得するのである。要はただ祈祷に自己のすべてを打ち任せるか否かにある。結果の如何を思い煩うものには到底霊験が恵まれるはずもない。・・日夜に祈って倦むことがなければ必ず福智円満の悉地に恵まれ、人間最上の法楽三昧を獲得するであろう。」とあります。
・さきにあげた夢中問答集で無窓疎石は最後に「他人を利益せむがために現報を祈り変へむと思ひて仏力・法力によりて至誠心にて修せば定業なりとも必ず転ずべし。」と言っています。
・「天台摩訶止觀卷第八下・門人灌頂記」にも「仮令、衆障峯起すとも当に死を推して命に殉ふべし、残生余息、誓って道場に畢る。捨心決定せば何の罪か滅せざらん、何の業か転ぜざらん」とあります。
4,以上の事を思い合わせると、お経に説かれている御利益の例は我々衆生が御真言を唱えたり、読経することにより、自分自身を変身させ自利利他により所願成就できる方法を説いているのではないかと思い至ります。まさにお経はその意味で「自己成就予言」「世界成就的予言」なのです。