今日は亀山天皇宸筆起請文(南禅寺蔵・国宝)が書かれた日。
今日永仁七年1299三月五日は亀山天皇宸筆起請文(南禅寺蔵・国宝)が書かれた日です。
以下「宸翰英華」等に依ります。亀山法皇は正応4年(1291年)、離宮であった禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の無関普門を開山として、これを龍安山禅林禅寺と名づけた。伝承によれば、ここの妖怪が無関普門禅師が座禅をしただけで退散したので、亀山法皇は無関を開山に請じたという。 無関普門は、40歳で入宋、10年以上修行の後、弘長2年(1262年)帰国。70歳になるまで自分の寺を持たず修行していたが、師の円爾の死をうけて弘安4年(1281年)に東福寺の住持となった。その10年後の正応4年(1291年)に亀山法皇から南禅寺の開山として招かれる。
この起請文は南禅寺に遠江國初倉荘・加賀國小坂荘・筑前國宗像社を寄付し、補任は器量抜群の者を選び以て永世当寺の繁栄を望まれたもの。皇族は必ずしもこの条件を満たさないと厳しく戒めておられます。
「亀山天皇宸筆御起請文(南禅寺蔵・国宝)
禅林寺起願事
朕聞、古云、人身逢難く佛法聞難し。吾十善之餘薫に催被れ(帝王は前世に十善戒を護った餘薫で現世に帝王と生まれるとされる)、忝も萬乗之帝祚を践む。亢龍の悔有りと雖も(『易経』に「亢龍悔有」昇りつめたものは下がる、との意)猶金仙之楽(仏法に逢う幸運)を待つ。竊に思ふ何の幸ぞ、法は大乗に逢ひ禅は南宋に聞く、後五百世之間に於いて三百餘會之砌在るが如し。爰に以て寺を建て僧を度し有漏の善根本望に非ずと雖も利生悲願、化他の要径なり。吾子々孫々宜しく吾所念を知るべし。當寺蘩昌者蘿圖永固玉葉久茂、若し吾所思に背き廃忘踵を旋さん、天界にあれば天眼を以て之を照らす。若し佛事有らば佛眼を以て之を鑑みる。之を思へ々々。
一、 寺領の事。
遠江國初倉庄
加賀國小坂庄
筑後國宗像社
右件三箇所盡未来際當寺に寄付され畢ぬ。縦ひ高根深谷となり桑田変じて滄海となろふとも改易有るべからざる者也。子孫宜しく吾本志願を守れ。加増有るといへども減少すべからざる者也。
長老職の事。器量卓抜、才智兼金、而して佛法の重擔と為り、勤行志節と為す之仁を選び補任すべき者也。佛日増輝、法輪常轉而已。必ずしも貴人を以て尊と為さず。乃至吾子孫と雖も勢を以て住持すべからず。恐らくは風を傷つけ教えを敗るの端とならん。深屬々々。
永仁七年1299三月五日」
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