安倍総理の突然の辞任劇でいろいろなことを考えさせられますが改めて国民は「日本国」をどうしたいのか考え行動する必要があると思わせられます。政治家等の上層部に任せて庶民は自己の利益のみの追求をしていればよい、という「鼓腹撃壌」の夢物語は厳しい地政学時代を迎えてとっくに過ぎています。
たしかに庶民はそれぞれ自己の人生上の問題を抱えています。しかしそういう人生問題も自己にのみ集中していては出口がありません。個にのみ焦点をあてていてはいつまでも解決できません。自利と利他は一体です。利他を図らずして自利もありえません。利他とはすなわち他者のため・日本のために何ができるかでしょう。
「大乗本生心地観経報恩品」に有名な四恩があります。
「世出世の恩に四種あり。一に父母の恩。二に衆生の恩。三に國王の恩。四に三寶の恩なり。如是の四恩は一切衆生平等に荷負す。」そして「国王の恩」とのところは、(現在は「国王」を「国民」と読み替えるべきでしょうが)
「人民の豐樂は王を根本と為し、王に依って有る故に。亦た梵王の能く萬物を生ずるが如く、聖王は能く治國之法を生じて衆生を利する故なり。日天子の能く世間を照らすが如く、聖王も亦た能く天下を觀察して人をして安樂ならしむる故なり。
王もし正治を失へば人は所依なし。若し正を以て化せば八大恐怖は其國に入らず。所謂、他國侵逼、自界叛逆、惡鬼疾病、國土飢饉、非時風雨、過時風雨、日月薄蝕、星宿變怪なり」とあります。
これらのことを説いて四恩に報いるべきと説くのです。
しかしこれは結局こういう報恩行によって自らが再度助けられることになるといっているのでしょう。個は全に対する使命を果たすことにによってのみ救われるからです。
「一切のものが全一としての「本当のわれ」の内容として生成しているという真理を達観し、これに安住することを、大師は秘密荘厳住心といい、「秘密荘厳住心とは、すなわち、これ究竟して自心の源底を覚知し、実の如くに自身の数量を証悟することなり(秘密曼荼羅十住心論第十)」とおしゃっている。ここに自身といい、自心というのは、いずれも「生」そのものとして「本当のわれ」の身心を指すので「本当のわれ」はこれを身体の上からみるも、精神の上から考えるも、ともに無尽であり無数である。この無尽無数の「本当のわれ」の身心たる、各々個々の一切を悟ることが、すなわち秘密荘厳世界を理解し見得することである。ゆえにまた「かくの如くの身心の究竟を知るは、すなわちこれ、秘密荘厳の住処を証するなり(秘密曼荼羅十住心論第十)」とおしゃっている。
かくの如くに、各々個々一切のものが、全一としての「本当のわれ」によりて、いかされているとともに、その全一としての「生」そものが必ず個体を通してのみ生きているところに,至大の妙趣がある。・・・「生」そのものとしての「全一」が個体を通じて生き、この個体を通じてのみ、「全」を生かすことになるのであるから、その個体としての使命は、きわめて重大で、自ら努力し発奮して、「全」そのものを生かすようにせねばならぬのである。(真言宗読本、栂尾祥雲)」
たしかに庶民はそれぞれ自己の人生上の問題を抱えています。しかしそういう人生問題も自己にのみ集中していては出口がありません。個にのみ焦点をあてていてはいつまでも解決できません。自利と利他は一体です。利他を図らずして自利もありえません。利他とはすなわち他者のため・日本のために何ができるかでしょう。
「大乗本生心地観経報恩品」に有名な四恩があります。
「世出世の恩に四種あり。一に父母の恩。二に衆生の恩。三に國王の恩。四に三寶の恩なり。如是の四恩は一切衆生平等に荷負す。」そして「国王の恩」とのところは、(現在は「国王」を「国民」と読み替えるべきでしょうが)
「人民の豐樂は王を根本と為し、王に依って有る故に。亦た梵王の能く萬物を生ずるが如く、聖王は能く治國之法を生じて衆生を利する故なり。日天子の能く世間を照らすが如く、聖王も亦た能く天下を觀察して人をして安樂ならしむる故なり。
王もし正治を失へば人は所依なし。若し正を以て化せば八大恐怖は其國に入らず。所謂、他國侵逼、自界叛逆、惡鬼疾病、國土飢饉、非時風雨、過時風雨、日月薄蝕、星宿變怪なり」とあります。
これらのことを説いて四恩に報いるべきと説くのです。
しかしこれは結局こういう報恩行によって自らが再度助けられることになるといっているのでしょう。個は全に対する使命を果たすことにによってのみ救われるからです。
「一切のものが全一としての「本当のわれ」の内容として生成しているという真理を達観し、これに安住することを、大師は秘密荘厳住心といい、「秘密荘厳住心とは、すなわち、これ究竟して自心の源底を覚知し、実の如くに自身の数量を証悟することなり(秘密曼荼羅十住心論第十)」とおしゃっている。ここに自身といい、自心というのは、いずれも「生」そのものとして「本当のわれ」の身心を指すので「本当のわれ」はこれを身体の上からみるも、精神の上から考えるも、ともに無尽であり無数である。この無尽無数の「本当のわれ」の身心たる、各々個々の一切を悟ることが、すなわち秘密荘厳世界を理解し見得することである。ゆえにまた「かくの如くの身心の究竟を知るは、すなわちこれ、秘密荘厳の住処を証するなり(秘密曼荼羅十住心論第十)」とおしゃっている。
かくの如くに、各々個々一切のものが、全一としての「本当のわれ」によりて、いかされているとともに、その全一としての「生」そものが必ず個体を通してのみ生きているところに,至大の妙趣がある。・・・「生」そのものとしての「全一」が個体を通じて生き、この個体を通じてのみ、「全」を生かすことになるのであるから、その個体としての使命は、きわめて重大で、自ら努力し発奮して、「全」そのものを生かすようにせねばならぬのである。(真言宗読本、栂尾祥雲)」