1、心理学者のアドラーは「幸福とは貢献感である。我々は、他者に貢献をしていると認識したとき幸福を感じる。」「毎日、可能な限り他者に貢献することで運命を作り上げることができる」という趣旨のことを言っているようです。
2、御大師様も利他行の大切さをいたるところで説いておられます。「それ釈教は浩汗(こうかん)にして際(きは)なく、涯(はて)なし。一言にしてこれを弊(つく)せば、ただ二利にあり。常楽の果を期するは自利なり。苦空の因を済(すく)ふは利他なり。空しく常楽を願うも得ず。徒(いたずら)に抜苦を計れどもまた難し。必ずまさに福智兼ねて修し、定慧並べ行じて、いましよく他の苦を救い、自の楽を取るべし。(弘法大師「御請来目録」)」(お釈迦様の教えは果てし無く広いが、一言にして之を言えば「自利・利他」である。悟って常楽の境地に遊ぶことを求めるのは自利であり、空の世界にいながら苦しむ衆生の苦の原因を救ってやるのは「利他」である。常楽だけを願っても得られず、衆生済度のみを願っても難しい。必ず利他という徳を積む福行と,自己の悟りを完成するための智行を共に修行し、また禅定行と智慧行を共に修行してはじめて自利利他行が全うできる。)(弘法大師「御請来目録」)
3、「もし善男善女ありて生死の苦根を断じ、菩提の妙果に至らんと欲せば、まず福智の因を積んで、しかるのちに無上の果を感致せよ。福智の因といふは妙経を書写し、深義を講思するは、すなわちこれ智慧の因なり。檀等の諸行はすなわちこれ福徳の因なり。よくこの二善を修し四恩を抜済し、衆生を利益するときは自利利他の功徳を具し、すみやかに一切智智の大覚を証す。これを菩提といい、これを仏陀と称し、または真実報恩者お名つ゛く。(大師、「理趣経開題」)(布施と写経により自利利他行をすれば生死の難より逃れ得る)。
このように、大師は至る所で、利他行の大切さを説いておられます。
4、それどころか大日経では「利他行こそが悟りの姿である」と説いています。
それは大日経住心品にある「菩提心を因と為し、大悲を根と為し、方便を究竟と為す」ということばです。すなわち誰もが持つ菩提心という悟りの心を因として、大悲心による修行をおこない、それにより具体的救済活動をおこなっている姿(方便)こそが「悟り」そのものなのである、ということです。
密教辞典にはこう書いてあります。「1、菩提心為因・・菩提心とは一般には悟りを求める心のことで広くは宗教心が芽生えたことをいうが、求められるところの広大甚深の悟りは実はすでに自心に具わっている。ゆえにこのことを深く信じ戯論を捨てて大日如来自覚内証の体に合一して深心力を得るのが菩提心為因である。顕教ではこの境地は悟りの結果というべきであるが密教では初門(入門編)である。2、大悲為根・・先の菩提心をゆるぎなく発展させるために菩提心の種から大悲の根を生ずる。修行者の修行力と本尊の大慈悲の加地力と法身大覚の法界力との三力加持により、行ずるところの善根は一切世界にゆるぎない根を下ろし、無限の価値を生ずる。3、方便為究竟・・・・密教では方便とは実智から一段下がったものではなく智悲の具体化であり智悲は方便(手段)によりてはじめて現実となり、この現実となった方便によって却って智悲が極意に至る。ここに即事而真、当相即道の深意(現実の差別の世界そのままの中にに真実がある。)がある。・・」
「絶対の悟りの境地というものは、かなたにあるのではない、個々の現象のあらわれるすがた、そのなかに絶対が埋まっている(中村元・現代語訳大乗仏典より大意)
ということです。
5、問題は利他行の大切さは分かっていながらそれを実行できる機会を捕まえられないことです。これには勇気を出すしかありません。電車の中で席を譲ることだけでも勇気がいりますがこれも慣れれば自然にできるようになります。道のゴミ拾いも最初に勇気を出して思い切って拾いさえすればあとは何度も自然にできるようになります。ボランチアも思い切ってやれば後々まで後悔しないで済みます。各種の寄付も決して寄付したからと言ってその結果貧乏になることはありません。「少善も積み重ねればいずれ大変な功徳を齎す」と法句経にあります。