以呂波略釈和訳 覚鑁
(覚鑁上人は、大師御作の「いろは歌」は『涅槃経』の中の無常偈「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」や諸経のエッセンスに基つ゛いていると説明されています。
「(「色匂散 我世誰常 有為奥山今超 浅夢不酔」の歌の中に)二義あり。句と字なり。この句義に又四あり。大に分かちて二と為す。初めの二句(色匂散 我世誰常)は因行を修することを明かし、後の両句(有為奥山今超 浅夢不酔)は諸の証果の相を明かす。
「色匂散」「いろはにほへとちりぬるを」とは「生者必滅 会者定離 盛者必衰 実者必虚」なり。
(文殊師利問經に「此謂無我爲相。念念生滅者。一切諸行念念生。生者必滅。此謂一切諸法念念生滅」。
大般涅槃經に「恩愛合會者 必歸於別離」。六度集經に「生老病死 輪轉無際 事與願違 憂悲爲害 欲深禍高 瘡疣無外 三界都苦 國有何頼 有本自無 因縁成諸 盛者必衰 實者必虚 衆生蠢蠢 都縁幻居」)
尾(「ちりぬるを」の「を」)を除く中に於いて二義あり。
「我世誰常」「わがよたれそつねならむ」とは「諸行無常」等なり。
「色匂散」の「色」とは三の意有り。一には六塵(色・声・香・味・触・法の六境のこと)の第一眼識の所縁。二には順情可愛の諸行なり。色美艶語花麗厳好の義なるが故に。三には五蘊(色・受・想・行・識)の首(はじめ)を取り六境の尾を除く、謂く色蘊五塵の故に。「匂」といっぱ又二義あり、一には香塵(六塵の一つ。人の心をまどわして真性をおおい隠す香)の義、二には通塵。
「色匂散」とは略して二意あり。一には喩に就く。「色」とは花葉、此には各四相(春・夏・秋・冬)無常の義を含む。花は則ち一季の中を表し、葉は亦四運の間を示す。「匂」とは生住仮有、「散」とは異滅實無。二には法に約す。色に四義あり。一には順情可愛の諸境を皆名つ゛けて「色」と為すと。故に次に「匂」といふ。「色」は謂く顔色美艶花麗光沢盛栄力勢、妙染厳好輿賞珍愛等の義の故に。「散」とは不住の意を彰し、無常の義を明す。故に文に云へり「生者必滅会者定離」と。生會とは上の二字なり、縁生の法は縁合の體の故に、滅離とは下の一言なり、生住ならず合会なきが故に。又云く、「盛者必衰、実者必虚」と(六度實経「生老病死 輪轉無際 事與願違 憂悲爲害 欲深禍高 瘡疣無外 三界都苦 國有何頼 有本自無 因縁成諸 盛者必衰 實者必虚 衆生蠢蠢 都縁幻居」)。盛とは電幻の栄、實とは露泡の果なり。故に上の二言に配す。衰とは諸法の相、虚とは万法の常生なり。故に下の一字に属す。必は心必然を以て名と為す。定は決定に依りて称を受く。これ則ち三世不改の言、諸仏誠実の則なり。又云く、人命の停らざる山水に過ぎたり。今日は存すと雖も明日は亦保ち難し云々(「大般涅槃經卷第二十三光明遍照高貴徳王菩薩品第十之三」に「人命不停過於山水今日雖存明亦難保」)。又云く、水流れて常に充たず。火盛んなれども久しく燃ず。日出て須臾に没し、月満ちて已後缼く。尊栄高貴の者も無常の速やかなること之に過ぎたり云々
(「佛説罪業應報教化地獄經」「水流不常滿 火盛不久燃 日出須臾沒 月滿已復缺 尊榮豪貴者 無常復過是 念當勤精進 頂禮無上尊」)。又云く、云々。二には五塵の一分、三色の全数、三には三業の尾を除き、五蘊の首に目なずく。處には十を取り、界には八を省く。四には一切人法なり、法は六境に亙り、人には九處に遍ず。此の如くの人法は皆これ一心所見の影像、並に亦五眼(肉眼、天眼、慧眼、法眼、佛眼)所照の幻境なり。「色」とは影像可見等の義なり。次に「匂」とは氣香芳薫盛栄遍染なり。「散」とは無常に義を立て俱空に理を得、或いは四相の義前の喩の中の如し。
「我世誰常」とは此れ無常の義なり。今しばらく上の句に対して略して七異無常あり。所謂彼(「色匂散」のこと)は所愛(執着される対象)の無常を説き、此(「我世誰常」の句)は能著(執着する主体)の無常を明かす。彼(「色匂散」のこと)は財利の無常を顕し、此れ(「我世誰常」の句)は名官の無常を示す。彼は欲色の無常を辨じ、「色」は有色の故に。此れは無色の無常なり。「我」とは所著の心なるが故に、彼は境、此れは智。彼は依(環境)、此れは正(環境をよりどころとする身体)。彼は外、此れは内。彼は総、此れは別なり。復次に云々。我とはを體と為す。世とは為漏四相に功を受く。又我は二我(人我見・法我見)、世は三世なり。又云々、「誰常」とは今無明無常の義を明かす。或は復「誰」とは上の二我の虚妄を明かし、「常」とは下の三世の無常を説く。意の云く、「誰」の一字は上下に遍す。若し具に之を云はば我誰か世、誰が常云々、
「有為奥山今超」とは根本無明と生・住・異・滅とこの五を有為といふなり。毒樹森羅として邪林隙無し、智無明黒暗に障蔽せられ猛獣毒蟲の集る所、悪賊邪鬼の依る所なり。高遠にして達り難く、堅固にして崩れ難し。故に「奥山」と云ふなり。前の無常二空(我空と法空)の観羽を扇いで此の無明四相の邪山を越え、生死の昏夜已に明けて、般若の慧日始めて顕はる。故に今、「超」といふ。又無常の観、火を放って四相(生住異滅)の稠林(煩悩の生い茂った林)を焼き、空寂の金剛を揮って二我(人我・法我)の高嶽を拆く。林叢明々なれば暗険幽まし難きをや。過悪四もに散じ、厳浄遍く布いて不思議未曾有なり。故に今「超」といふなり。
「浅夢不酔」とは此れは得果なり。「夢」とは妄執邪見なり。これを離るる故に涅槃を証す。「酔」とは無明痴闇なり。此れを超ゆるが故に菩提を得。菩提は覚悟なり。三毒の酷酔を寤し、一真の大覚を得。「浅」とは修羅の長脚は八繕(八踰繕那)も深からず。大鵬の広翼は九万も猶狭し。無常に迷ふの当初は欲愛の小河猶深し。有為を越ゆるの只今は生死の大海還って浅し。故に「浅」と云ふ。「浅」とは膚(うわつら)なり。(終わり)