真言宗の檀那の心得うべきこと
真言宗の檀那は皆真言の三密の即身成仏の法の引導を授かるの人体なれば兼ねて三密の法の甚深の理を聴聞して、面々の心中の第八識(阿頼耶識)の所に薫じおくときは、即ち順次往生(現世をおえて地獄等に堕ちず直ちに極楽へ行くこと)の結縁と成るなれば、
・第一に委しく真言の即身成仏の教えを講釈し、耳に触れしむ。
・第二に阿弥陀仏は百光遍照の尊、一切衆生有縁の面々の自心の佛、極楽は十方世界に周遍する弥陀の心地にして今この娑婆の外に別にはなしといふことを教ふるなり(極楽はここである事を教えるべきである)。
・第三に人間の生涯の内の肝心肝要の時と云は、一期臨終の刹那なり。その一期の時の用心をば兼ねて聞かせおくこと。これ別して人間の生涯のあいだには一念の心にも忘るべからざるの大事なり。なんとなれば無明の家の愚痴の凡夫は老若男女をえらばず、生者必滅にして四相(生老病死)に遷さるるゆえに、只今は現在なれども、後時の存命は計られず、日夜十二時において現在徘徊するところと冥途黄泉の旅との両岐、忽ちに分るること、皆人の現量(現実に量知する)に見る通りなり。凡そ人間の三十歳以上は盛時と申して、分別盛りなれば今ここの一期大要の勧めのことをば、つぶさに覚えて第八識のところに薫じおくべし。或は海河等を過ぎて難に遇ひ、あるいは卒中風(突然仮死状態になること)などに遇ひて頓死などせんときに、早速に宿世の罪業の招くところなりと知りて無上菩提を求むる大悲願の菩提心を発して命終するときは順次往生(現世をおえて地獄等に堕ちず直ちに極楽へ行くこと)を遂ぐるがゆえなり。もし一期の心掛けなきものは横死に遇ひて死すれば多く中有に迷ふ。卒中頓死などのものは多くは身命を愛着して死するなれば永く苦界に漂ふなり。是をもって道場に安置するところの両大師(弘法大師・興教大師)の教誨の義をばやわらげて耳に入るなり。・・
真言宗の檀那は皆真言の三密の即身成仏の法の引導を授かるの人体なれば兼ねて三密の法の甚深の理を聴聞して、面々の心中の第八識(阿頼耶識)の所に薫じおくときは、即ち順次往生(現世をおえて地獄等に堕ちず直ちに極楽へ行くこと)の結縁と成るなれば、
・第一に委しく真言の即身成仏の教えを講釈し、耳に触れしむ。
・第二に阿弥陀仏は百光遍照の尊、一切衆生有縁の面々の自心の佛、極楽は十方世界に周遍する弥陀の心地にして今この娑婆の外に別にはなしといふことを教ふるなり(極楽はここである事を教えるべきである)。
・第三に人間の生涯の内の肝心肝要の時と云は、一期臨終の刹那なり。その一期の時の用心をば兼ねて聞かせおくこと。これ別して人間の生涯のあいだには一念の心にも忘るべからざるの大事なり。なんとなれば無明の家の愚痴の凡夫は老若男女をえらばず、生者必滅にして四相(生老病死)に遷さるるゆえに、只今は現在なれども、後時の存命は計られず、日夜十二時において現在徘徊するところと冥途黄泉の旅との両岐、忽ちに分るること、皆人の現量(現実に量知する)に見る通りなり。凡そ人間の三十歳以上は盛時と申して、分別盛りなれば今ここの一期大要の勧めのことをば、つぶさに覚えて第八識のところに薫じおくべし。或は海河等を過ぎて難に遇ひ、あるいは卒中風(突然仮死状態になること)などに遇ひて頓死などせんときに、早速に宿世の罪業の招くところなりと知りて無上菩提を求むる大悲願の菩提心を発して命終するときは順次往生(現世をおえて地獄等に堕ちず直ちに極楽へ行くこと)を遂ぐるがゆえなり。もし一期の心掛けなきものは横死に遇ひて死すれば多く中有に迷ふ。卒中頓死などのものは多くは身命を愛着して死するなれば永く苦界に漂ふなり。是をもって道場に安置するところの両大師(弘法大師・興教大師)の教誨の義をばやわらげて耳に入るなり。・・