最近修法で香花燈塗を供養するのにどうもマンネリ化しているのが自分でもわかりました。結論は、供養する自分を功徳を受けようとして「自分が自分が」として我利我利に考えていたためでした。供養する方、供養物、供養される仏様すべて雲海のように広がっているとイメージすべきだったのです。そこに自分などという狭い考えは入りようもなかったのです。
1、およそ供養といって思い出すのは供養雲海菩薩で、自分の供養が海のように広がって諸仏に行き届くというイメージでした。胎蔵曼荼羅の釈迦院の東端には供養雲海菩薩がおられ蓮葉に坐して両手に花を盛った蓮葉を持っておられます。この菩薩は「大毘盧遮那経廣大儀軌」に「雲雨のように供養する。一一の仏海の諸々の如来・菩薩・金剛衆に供養する」とあり此の菩薩はすべての尊に限りなく供養することを誓願としています(ご真言は「のうまくさらばたたぎゃていびゆ びじんばもっけいびゃく さらばたけん うだぎゃてい そはらけいまん ぎゃぎゃなけんそわか」)
自分も「自分の」供養とばかり力が入りどうも上滑りしていたように思います。
2、最近以下の経を読みまして供養は自分がしているのではなく皆と一緒にしているのだと思わなければならないのだと気が付きました。
大毘盧遮那成佛經疏卷第一入眞言門住心品第一には「・・且く行者供養を修する時の如きは若しは一花或ひは塗香等を奉るに、即ち遍一切處の淨菩提心を以て供養雲を興し、普く佛事を作して悲願を発起し、群生に迴向して、一切の苦を抜き無量の樂を施す。自らの善根と及び如来加持力と法界力とに由るが故に。爲妙の妙業皆成就することを得る。・・」
3、そしてさらに究極的には以下のような心境つまり供養する側も雲海、供養される側も雲海、一切は無限であるという心境が大切と気が付きました。
「・・・密教では・・・いはゆる一華一香は因縁によって生ぜられた有限の一事一物に過ぎないけれども密教のそれは何れもこれを精神化し無限化し各々に全宇宙を宿したる一香一華ということになるからである。これを密教の供養雲海思想について考えるも、密教の根本佛たる大日如来は,あたかも太陽の如くに,正しきものにも、正しからざる者にも、その生命の光をおしまず一様にこれを照らし、一華一香は勿論、微塵末に至るまで、その生命の光が浸透している。さればいかなる一事一物もそのままが無限であり全一であり、遍法界である。この遍法界の一華一香を以て、遍法界の法身佛を供養するのであるから、供養する事物も供養せらるる佛も俱に宇宙の絶対体で能・所を絶した上の(供養する側とか供養される側とかの区別のない)供養雲海である。・・・「我今献ずるところの諸の供俱、一一の諸塵、皆実相である。実相あまねく法界に遍じ、法界即ちこれ諸の妙供である。自他の四法身に供養し三世常恒に普く供養す、不受にして受け、哀愍して受け給え」と「五供養偈」にあるのもそれである。(栂尾祥雲全集)」
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