79番高照院で若者が予言した通り80番より先に81番にきてしまいました。
81番白峰寺の境内には「崇徳天皇御廟所 四国81番綾松山白峰寺略縁起」と書かれた掲示板がありました。
それによると「当山は弘法、智証両大師の開基である。
弘法大師は弘仁6(815)年当山に登られ、峰に如意宝珠を埋め、閼伽井を掘られた。
かの宝珠の地、滝壷となり三方に流れて増減なしという。
・・・保元元(1156)年保元の乱により、第75代崇徳天皇当国に御配流・・・都合9カ年間配所の月日を過ごされて長寛2(1164)年旧8月26日崩御。
御遺告により当山稚児嶽山上に荼毘し御陵が営まれた。
・・・仁安元年神無月西行は四国修行の途次一夜法施読経し奉ると御廟震動して崇徳院現前して一首の御歌を詠ぜられて「松山や波に流れてこし舟の やがて空しくなりにけるかな。」(新古今)
西行涙を流して御返歌に「よしや君昔の玉の床とても かからん後はなににかはせむ。」(山家集)と詠じ奉ると御受納くだされたか峰峰鳴動した。」とあります。
白峰寺も来たいと願っていたところです。
西行法師が白峰の崇徳陵に詣でた話は「山家集」謡曲「松山天狗」「椿説弓張月」など多くの古典にでてきます。
幸田露伴の作品にもあったとおもいます。
しかしなんといっても圧巻は雨月物語です。
いままで何度読み返したかわかりません。
雨月物語の最初に「白峰」としてでてくるからです。
名文で内容もダイナミックなので、長いが引用します。
「・・・この里近き白峰といふ所にこそ、新院の陵ありとききて、拝みたてまつらばやと、十月はじめつかた、かの山に登る。松柏は奥深く茂りあひて、青雲のたなびく日すら小雨そぼふるがごとし。・・・土たかく積みたるがうえに、石を三つがさねに畳なしたるが、うばかずらに埋もれてうらがなしきを、これならん御墓にやと心もかきくらまされて、さらに夢現をもわきがたし。・・・終夜供養したてまつらばやと、・・石の上に座をしめて、経文徐かに誦しつつも、かつ歌よみてたてまつる。
「松山の浪のけしきはかはらじをかたなくきみはなりまさりけり」 ・・・あやなき闇にうらぶれて・・まさしく「円位」「円位」(西行のこと)と呼ぶ声す。・・・その形異なる人の、背高く痩せおとろへたるが・・・前によみつる言の葉のかへりこと聞こえんとて見つるなりとて 「松山の浪に流れてこし舟の やがて空しくなりにけるかな。」
「うれしくも詣でつるよ」と聞こゆるに、新院の霊なることを知りて地にぬかずき涙をながしていふ「さりとていかに迷はせたまふや。・・・佛果円満の位に昇らせたまへ」と情をつくして諌め奉る。」 と書かれています。
この後崇徳帝の亡霊は(父鳥羽天皇の後を自分の子重仁が継げず後白河帝が継いだので保元の乱を起こした後)国と朝廷を呪って平治の乱を起こさせた、そのあと平家も滅亡させるであろう、と予言します。
そして、雨月物語には、世の中はその後崇徳帝の亡霊の予言通りになったと書いています。
「平氏の一門ことごとく西の海に漂ひ、遂に讃岐の海志度、八島にいたりて、武きつはものどもおほく鼇魚(ごうぎょ)のはらに葬られ、赤間が関、壇ノ浦にせまりて、幼主海に入らせたまへば、軍将たちものこりなく亡びしまで、つゆたがはざりしぞ、おそろしくあやしきかたりぐさなりけり。・・・」とあります。
81番白峰寺の境内には「崇徳天皇御廟所 四国81番綾松山白峰寺略縁起」と書かれた掲示板がありました。
それによると「当山は弘法、智証両大師の開基である。
弘法大師は弘仁6(815)年当山に登られ、峰に如意宝珠を埋め、閼伽井を掘られた。
かの宝珠の地、滝壷となり三方に流れて増減なしという。
・・・保元元(1156)年保元の乱により、第75代崇徳天皇当国に御配流・・・都合9カ年間配所の月日を過ごされて長寛2(1164)年旧8月26日崩御。
御遺告により当山稚児嶽山上に荼毘し御陵が営まれた。
・・・仁安元年神無月西行は四国修行の途次一夜法施読経し奉ると御廟震動して崇徳院現前して一首の御歌を詠ぜられて「松山や波に流れてこし舟の やがて空しくなりにけるかな。」(新古今)
西行涙を流して御返歌に「よしや君昔の玉の床とても かからん後はなににかはせむ。」(山家集)と詠じ奉ると御受納くだされたか峰峰鳴動した。」とあります。
白峰寺も来たいと願っていたところです。
西行法師が白峰の崇徳陵に詣でた話は「山家集」謡曲「松山天狗」「椿説弓張月」など多くの古典にでてきます。
幸田露伴の作品にもあったとおもいます。
しかしなんといっても圧巻は雨月物語です。
いままで何度読み返したかわかりません。
雨月物語の最初に「白峰」としてでてくるからです。
名文で内容もダイナミックなので、長いが引用します。
「・・・この里近き白峰といふ所にこそ、新院の陵ありとききて、拝みたてまつらばやと、十月はじめつかた、かの山に登る。松柏は奥深く茂りあひて、青雲のたなびく日すら小雨そぼふるがごとし。・・・土たかく積みたるがうえに、石を三つがさねに畳なしたるが、うばかずらに埋もれてうらがなしきを、これならん御墓にやと心もかきくらまされて、さらに夢現をもわきがたし。・・・終夜供養したてまつらばやと、・・石の上に座をしめて、経文徐かに誦しつつも、かつ歌よみてたてまつる。
「松山の浪のけしきはかはらじをかたなくきみはなりまさりけり」 ・・・あやなき闇にうらぶれて・・まさしく「円位」「円位」(西行のこと)と呼ぶ声す。・・・その形異なる人の、背高く痩せおとろへたるが・・・前によみつる言の葉のかへりこと聞こえんとて見つるなりとて 「松山の浪に流れてこし舟の やがて空しくなりにけるかな。」
「うれしくも詣でつるよ」と聞こゆるに、新院の霊なることを知りて地にぬかずき涙をながしていふ「さりとていかに迷はせたまふや。・・・佛果円満の位に昇らせたまへ」と情をつくして諌め奉る。」 と書かれています。
この後崇徳帝の亡霊は(父鳥羽天皇の後を自分の子重仁が継げず後白河帝が継いだので保元の乱を起こした後)国と朝廷を呪って平治の乱を起こさせた、そのあと平家も滅亡させるであろう、と予言します。
そして、雨月物語には、世の中はその後崇徳帝の亡霊の予言通りになったと書いています。
「平氏の一門ことごとく西の海に漂ひ、遂に讃岐の海志度、八島にいたりて、武きつはものどもおほく鼇魚(ごうぎょ)のはらに葬られ、赤間が関、壇ノ浦にせまりて、幼主海に入らせたまへば、軍将たちものこりなく亡びしまで、つゆたがはざりしぞ、おそろしくあやしきかたりぐさなりけり。・・・」とあります。