明治14年の「四国遍路道所記」には「それ四国遍路一度巡拝の輩は病苦またはよろずの難を除き、未来成仏うたがひなし。
遍路に道ををしへ、一夜の宿をかし、一粒一銭を施すものは寿命長久にして諸願成就すべきものなり。」とあります。
なお、お蔭をすぐには受けられないこともあります。
6番安楽寺でのべた水谷しずさんのケースも夫が数回遍路を重ねた後の霊験でした。
新義真言宗の開祖興教大師覚鑁上人はなかなか効現のあらわれないのは「仏様がその人の信心を試されている場合、本人の宿業が重い場合、かすかに成就しているが本人が分かってない場合、しばらく魔が隠している場合などがあるが深い信心をもって修行を続ければ必ずお蔭がある。」
(「経にいはく(大日経のこと)いかなる心をおこすもの必ず悉地を成ずるや、いはく深信あるもの能く悉地を得、何なるをば深信という、いはく久々に修行して法験を得ずといえども疑慮を生ぜず退心を生ぜざるなり、このごとくの人必ず定んで悉地を成就す、あるは本尊、行者を試さんが為の故に、あるは諸天等その信心の浅深を試さんがために暫く以って之を抑うるがゆえに、あるは宿障重深なるがゆえに暫く不成に似たりといへども、冥(かすか)に能く成就すれども自ら知らざるがゆえに、あるいは魔旬妨げをして暫く覆蔽(ふくへい)するがゆえに、このごとく等の種種の因縁あるが故に疑怠すべからず」 -末代真言行者用心))とあります。
私自身も今もって願いが叶わない時には神仏を疑ったりしますが、疑ったからと言って事態が好転するわけではありません。そういう時は神仏を信じて、あるいは神仏を信じられなくても淡々と利他行に励むことしかないと思います。利他行さえできれば必ずいずれ事態は好転します。しかし厳しい事態に直面しているときはとにかく拝み續けることです。あれこれ詮索している暇はありません。古来からの信仰の伝統のある寺社を参拝することです。古来からのいのりが積み重なっていなければ本物とはいえませんから。
遍路に道ををしへ、一夜の宿をかし、一粒一銭を施すものは寿命長久にして諸願成就すべきものなり。」とあります。
なお、お蔭をすぐには受けられないこともあります。
6番安楽寺でのべた水谷しずさんのケースも夫が数回遍路を重ねた後の霊験でした。
新義真言宗の開祖興教大師覚鑁上人はなかなか効現のあらわれないのは「仏様がその人の信心を試されている場合、本人の宿業が重い場合、かすかに成就しているが本人が分かってない場合、しばらく魔が隠している場合などがあるが深い信心をもって修行を続ければ必ずお蔭がある。」
(「経にいはく(大日経のこと)いかなる心をおこすもの必ず悉地を成ずるや、いはく深信あるもの能く悉地を得、何なるをば深信という、いはく久々に修行して法験を得ずといえども疑慮を生ぜず退心を生ぜざるなり、このごとくの人必ず定んで悉地を成就す、あるは本尊、行者を試さんが為の故に、あるは諸天等その信心の浅深を試さんがために暫く以って之を抑うるがゆえに、あるは宿障重深なるがゆえに暫く不成に似たりといへども、冥(かすか)に能く成就すれども自ら知らざるがゆえに、あるいは魔旬妨げをして暫く覆蔽(ふくへい)するがゆえに、このごとく等の種種の因縁あるが故に疑怠すべからず」 -末代真言行者用心))とあります。
私自身も今もって願いが叶わない時には神仏を疑ったりしますが、疑ったからと言って事態が好転するわけではありません。そういう時は神仏を信じて、あるいは神仏を信じられなくても淡々と利他行に励むことしかないと思います。利他行さえできれば必ずいずれ事態は好転します。しかし厳しい事態に直面しているときはとにかく拝み續けることです。あれこれ詮索している暇はありません。古来からの信仰の伝統のある寺社を参拝することです。古来からのいのりが積み重なっていなければ本物とはいえませんから。