福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験・・・その105

2019-01-13 | 四国八十八所の霊験
その2、苦悩している人は「代受苦の菩薩」であること

 どちらかといえば平穏な一生をすごすひともいる一方、世の中には悲惨な出来事に遭遇する人もいます。
 事件事故にまきこまれ或は病苦にあえぎ苦しんでいる人々と平穏な人生を送っている人々のあいだにはどういう関係があるのか?遍路道で出会った障害者を連れた家族の方々を思い出すにつれ考えこまざるをえませんでした。
(病気についてのお経の文句があります。大智度論巻八「病に二種あり、先世の業病と今世の不摂生病なり。・・・何の因縁をもってか病をうるや。答えていわく先の世にこのんで杖で打ち(鞭杖)ごう掠、閉じ込め(閉繋)をおこない種種に悩ますがゆえに病を得。・・・」
大智度論巻三「無功徳の人は生老病死の大海を渡ることあたわず。少功徳の人もまた渡らず。」
大智度論巻五十八「若し善男子善女人ありて般若波羅密多を受持しないし正憶念せばついに毒に中りて死せず。兵刃も傷つけず、水火も害せず、乃至四百四病もあたることあたわざるところなり。その宿命、業報を除く。」
弘法大師の「秘蔵宝鑰」に「病は四大不調と鬼と業とにより起こる」とあります。また「妙薬は病を悲しんで興り、仏法は障りを愍んで顕る。この故に聖人の世に出こと必ず慈悲によるなり。・・・抜苦与楽の本は衆生の心病の源を防ぐにしかず。」ともあります。
また「身病多しといえども、その本はただし一つ。いわゆる無明これなり。・・・身病を治する術は、大聖よく説きたまへり。・・・四大のそむけるには薬を服して除き、鬼業のたたりには呪悔をもってよくけす。薬力は業鬼をしりぞくることあたわず、呪功は通じて一切の病を治す」(十住心論)
「四魔現前すれば、すなわち大慈三昧にいり、四魔等を恐怖し降伏す」(蘊魔(肉体を持っているために迷う魔)、煩悩魔(愚かさのために迷う魔)死魔(死を恐れ、死を願う魔)天子魔(善事をねたみ害そうと外からくる魔)に魅入られたときはおおいなる慈しみの心をおこすと魔を心底恐れさせて降参させてしまう。つまり心がおかしくなりかけたときは他者に対する慈しみの心をおこせば魔は逃げていくということ。吽字義)

「陀羅尼の秘法というは方によって薬をあわせ、服食して病を除くがごとし」)(密教の修法によれば処方箋どおりに薬をのむように効果がでる。性霊集巻九)
華厳経、縁起甚深品には、「(文殊菩薩が覚首菩薩に問うて言うに)、仏子よ、心の本性は一つであるのに、どういうわけで、この世はいろいろの差別が生じているのでしょうか。幸福な人もおり、不幸な人もおり、くるしんでいる人がいるかとおもえば、たのしんでいる人もいる。また、じぶんの世界を反省してみると、(1)業は心をしらないし、心は業をしらない。(2)感受は、その結果をしらないし、結果は感受をしらない。(3)心は感受をしらないし、感受は心をしらない。(4)因は縁をしらないし、縁は因をしらない。」これにたいして覚首菩薩は、次のように答えている。「衆生を教えみちびくために、あなたは、よくこの問題をたずねてくれた。わたしは、世界のありのままのすがたを説こう。よくおききなさい。すべてのものは、自性を持たない。それがなんであるか、ということをたずねても、体得することができない。したがって、どんなものでも、たがいにしりあってはいない。たとえば、川の水は流れ流れてやむことがないが、その一滴一滴は、たがいにしらないように、すべてのものもまた、そうである。
 また、大火はもえて、しばらくもとどまらないが、そのなかのそれぞれの炎は、たがいにしらないように、すべてのものもまたそうである。 眼・耳・鼻・舌・身心などは、くるしみをうけていると感じているが、しかし実際には、なんのくるしみもうけていない。ものそのものは、つねに微動だもしていないけれども、あらわれているほうからいえば(「存在する」という行為からいえば)、つねにうごいている。しかし実際には、あらわれているということにも、なんの自性もない。ただしく思惟し、ありのままに観察すれば、すべてのものに自性のないことがしられる。このような心眼は、清浄であり、不思議である。だから、虚妄(こもう)といい、虚妄でないといい、真実でないということなどはかりのことばにすぎない。」



医経に「衆生病を得るに十因縁あり。一には久しく座して臥せず、二には食貸すことなし、三には憂愁、四には疲れ、五には淫逸、六には瞋恚、七には大便を忍ぶ、九には上風を制す、十には下風を制す。」
涅槃経に「一切衆生に四毒箭あり。貪欲、瞋恚、愚痴、驕慢なり。もし病因あらばすなわち病生ずるあり。いわく、寒熱肺病、上気吐逆、皮体しゅうしゅう、その心悶乱、下痢噦咽、小便淋漓、眼耳疼痛、腹背脹満、顚狂乾消、鬼魅に着せらる。このごときの諸病諸仏世尊あることなし。」「二つの因縁あらばすなわち病苦なし。一には一切衆生を憐憫し、二には病者に医薬を給施す。」「もし仏子一切疾病のひとをみてはまさにつねに供養するところ仏のごとくにして異なることなかるべし。八福田(仏、聖人、和尚、阿じゃ利、僧、父、母、病人への供養)のなかに看病福田はこれ第一の福田ならん。」)
看病に関して言えば、大法輪平成10年7月号に「病気を悪とみない医療」と言う題で、ジャーナリストの小原田泰久氏が全国のヒーリングドクターと言われる人たち(埼玉県の帯津三敬病院、岡山市の三宅病院、愛知県の小沢病院など)を取材して共通点をまとめています。「人間を肉体のみの存在とみてないこと。病気を気ずきのチャンスと見ること、人間は死んだら終わりでなくいのちは永遠であると見ること。奇跡的な治癒は起こりうるとかんがえること、癒しは高い精神性を持った人のもとでおこること」などがこれらの病院の共通の考えとしてあげられると言っています。
しかし健康で幸せそうに毎日を過ごせる人がいる一方病苦に責めさいなまれるひとがいて割り切れない思いをしていることも事実です。なぜこういう不条理がおこるのか。このことに関し代受苦の思想というものがあります。
 最近のリーダーは昔のリーダーと違いこの代受苦の思想が全く分からなくなっています。 しかし悩みを抱えた遍路に千数百年間お接待を続けた四国の人々はこの関係をちゃんと判っていました。即ち病苦の原因はさまざまにあろうと
苦難にあえぎ病苦に苦しむ人たちは我々の業を代わって引き受けてくださっている菩薩(代受苦の菩薩)であるということです。聖武天皇の妃、光明皇后は病者に施浴しましたが、らい病患者の膿を吸ってやったところ患者は阿閦(あしゅく)如来の姿を現したといわれています。

 四分律というお経では仏様が「人若(も)し我を供養せんと欲せばまず病人を供養すべし」とおっしゃっています。文殊師利般涅槃経には「(文殊師利菩薩は)自ら化身して貧窮孤独苦悩の衆生となって行者のまえにいたる」とあります。(佛告跋陀波羅。此文殊師利法王子。若有人念。若欲供養修福業者。即自化身。作貧窮孤獨苦惱眾生。至行者前。)
 華厳経(金剛幢菩薩十回向品)は 菩薩が「我まさに一切衆生のために無量の苦を受け諸の衆生をして解脱を得しむべし」といい、大宝積経には「我ことごとく代わって、諸の衆生をして(この世の)大地獄を出しめて、我代わって苦を受け・・・」とあります。
 大般若波羅密多経第四十七巻には「一切の地獄、傍生鬼界人天趣の中の有情の受くるところの苦悩、我当に代わって受け、彼をして安楽ならしむべし(地獄、餓鬼、畜生、人間界、天界などの生き物の苦悩を菩薩は代わって受けこれらのものを安楽にしてやる)」とあります。
 このほかの多くのお経にこの代受苦の思想は出てきます。
遍路道でであった多くの障害者とその家族はどうみても代受苦の菩薩そのものでした。
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