虫の聲
2019-09-17 | 法話
夕暮に一橋通りを歩いていると今まで蝉の声が響いていた桜の下で今度はいつの間にかすだく虫の声がきこえます。蝉の声から虫の音へあっという間に変わっていきます。
・「ふかゝらぬ庭の草にも虫のねのきこゆる秋となりにけるかな」とは明治天皇の御製です。
・枕草子にも有名な箇所があります。四十段に「虫は 鈴虫。ひぐらし。蝶。松虫。きりぎりす。はたおり。われから。ひを虫。螢。
蓑虫、いとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似て、これも恐ろしき心あらむとて、親の、あやしき衣ひき着せて、「今、秋風吹かむをりぞ来むとする。待てよ」と言ひ置きて逃げて去(い)にけるも知らず、風の音を聞き知りて、八月(はづき)ばかりになれば、「ちちよ、ちちよ」とはかなげに鳴く、いみじうあはれなり。 額(ぬか)づき虫、またあはれなり。さる心地に道心おこして、つきありくらむよ。思ひかけず暗き所などに、ほとめきありきたるこそをかしけれ。 」
・貝原益軒の楽訓にも「秋は夕暮れの景色こそただならず見ゆれ。薄霧のまがきに立ち上るよそほひ、風のおと、虫の音、いずれとなく人の心にしみて、春にもまさりあはれふかし。・・」とあり、
・西行法師は続拾遺集に「あき風に穗ずゑ波よる苅萱の 下葉に虫の声乱るなり」とか「あき風のふけ行く野辺の虫の音のはしたなきまでぬるる袖かな(山家集)」とか歌っておられます。
・慈雲尊者は「無門関評釈」の中で「大力量底の人」として「夕去ればたれ松虫におもひいずる ねをのみなきし いもがおもかげ」と歌っておられます。ここまでくると理解不能になりますが・・。
(参考・・無門関第二十則 【大力量人】
無門関第二十則 ・大力量人
松源和尚日ク、大力量ノ人、甚ニ因ッテ脚ヲ抬ゲ起サザル。又云ク、口ヲ開クコト舌頭上ニ在ラズ。
無門曰ク、松源謂ツベシ、腸ヲ傾ケ腹ヲ倒スト、只ダ是レ人ノ承当スルヲ欠ク。タトイ直下ニ承当スルモ、正ニ好シ無門ノ処ニ来ラバ痛棒ヲ喫セン。何ガ故ゾ、[斬]ニイ。真金ヲ識ラント要セバ、火裏ニ看ヨ。
頌ニ日ク、
脚ヲ抬ゲ踏翻ス香水海、
頭ヲ低レテ俯シテ視ル四禅天。
一箇ノ渾身著クルニ処無シ、
<本則(ほんそく)>
松源和尚が言われた、「修行によって勝れた力を発揮できるような人が、いったいどうして自ら立ち上がろうとしないのか」。また言われた、「どうして舌を使って話さないのだろうか」。
<評唱:公案に対する無門禅師の禅的批評>
無門は言う、「松源和尚は、なんと腸までさらけ出したものだな。ただ受け止める人がいないだけなのだ。
しかし、たとえきちんと受け止めることができたとしても、やはりこの無門のところに来て痛棒を受けてもらいたいものだ。それは何故か。 さあどうだ。純金かどうかは、火を通せばすぐわかる。」
頌にいう
「須弥山をかこむ香水海を足でけり
覚りの境地の四禅天をも低くみる
この身は置きどころもないのだ」
・「ふかゝらぬ庭の草にも虫のねのきこゆる秋となりにけるかな」とは明治天皇の御製です。
・枕草子にも有名な箇所があります。四十段に「虫は 鈴虫。ひぐらし。蝶。松虫。きりぎりす。はたおり。われから。ひを虫。螢。
蓑虫、いとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似て、これも恐ろしき心あらむとて、親の、あやしき衣ひき着せて、「今、秋風吹かむをりぞ来むとする。待てよ」と言ひ置きて逃げて去(い)にけるも知らず、風の音を聞き知りて、八月(はづき)ばかりになれば、「ちちよ、ちちよ」とはかなげに鳴く、いみじうあはれなり。 額(ぬか)づき虫、またあはれなり。さる心地に道心おこして、つきありくらむよ。思ひかけず暗き所などに、ほとめきありきたるこそをかしけれ。 」
・貝原益軒の楽訓にも「秋は夕暮れの景色こそただならず見ゆれ。薄霧のまがきに立ち上るよそほひ、風のおと、虫の音、いずれとなく人の心にしみて、春にもまさりあはれふかし。・・」とあり、
・西行法師は続拾遺集に「あき風に穗ずゑ波よる苅萱の 下葉に虫の声乱るなり」とか「あき風のふけ行く野辺の虫の音のはしたなきまでぬるる袖かな(山家集)」とか歌っておられます。
・慈雲尊者は「無門関評釈」の中で「大力量底の人」として「夕去ればたれ松虫におもひいずる ねをのみなきし いもがおもかげ」と歌っておられます。ここまでくると理解不能になりますが・・。
(参考・・無門関第二十則 【大力量人】
無門関第二十則 ・大力量人
松源和尚日ク、大力量ノ人、甚ニ因ッテ脚ヲ抬ゲ起サザル。又云ク、口ヲ開クコト舌頭上ニ在ラズ。
無門曰ク、松源謂ツベシ、腸ヲ傾ケ腹ヲ倒スト、只ダ是レ人ノ承当スルヲ欠ク。タトイ直下ニ承当スルモ、正ニ好シ無門ノ処ニ来ラバ痛棒ヲ喫セン。何ガ故ゾ、[斬]ニイ。真金ヲ識ラント要セバ、火裏ニ看ヨ。
頌ニ日ク、
脚ヲ抬ゲ踏翻ス香水海、
頭ヲ低レテ俯シテ視ル四禅天。
一箇ノ渾身著クルニ処無シ、
<本則(ほんそく)>
松源和尚が言われた、「修行によって勝れた力を発揮できるような人が、いったいどうして自ら立ち上がろうとしないのか」。また言われた、「どうして舌を使って話さないのだろうか」。
<評唱:公案に対する無門禅師の禅的批評>
無門は言う、「松源和尚は、なんと腸までさらけ出したものだな。ただ受け止める人がいないだけなのだ。
しかし、たとえきちんと受け止めることができたとしても、やはりこの無門のところに来て痛棒を受けてもらいたいものだ。それは何故か。 さあどうだ。純金かどうかは、火を通せばすぐわかる。」
頌にいう
「須弥山をかこむ香水海を足でけり
覚りの境地の四禅天をも低くみる
この身は置きどころもないのだ」