第十七 三力加持章(「真言宗義章」真言宗各派聯合法務所編纂局 1916)等より・・18
(大日経に「我が功徳力、如来の加持力、及び法界力、とを以て衆生界に周遍す」とあり、行者の行と、佛の加持力と法界の力が一致したとき不思議が生ずる、とされるが、その大本は行者の「信」である)
行者の信水だにあらば三力具足して妙感妙応することけだし一念の頃にあり。
一切諸法は因縁より生ず、因縁相応するに非ずんば一塵も起こらず。一法も生ぜず。真言行者現身に悉地を成就して二利妙業法界に遍ずるがごときは三力不思議の因縁相応の致すところなり。故に大日経に曰はく「我が功徳力、如来の加持力、及び法界力とを以て衆生界に周遍す」(大毘盧遮那成佛神變加持經卷第三世間成就品第五「以我功徳故及餘無量門 數數心思惟 發廣大悲愍 三種加持句 想念於一切 心誦持眞言 以我功徳力 如來加持力 及與法界力 周遍衆生界 諸念求義利 悉皆饒益之 彼一切如理 所念皆成就」)
「我が功徳力」とは行者自ら修する所の三密の妙行なり、是即ち佛境界の行なるがゆえに広大の功徳を具すること知るべし。「如来加持力」とは本尊大悲護念の三密なり。是即ち第一実際微妙極の境より生ずる業用なるが故に殊勝の威力を具することを知るべし。
「法界力」とは、諸法本有の融通無碍の徳なり。是即ち六大法爾瑜伽の業用なるが故に難思の力を具すること知るべし。
この如く三力各々に不思議の徳を具すと雖も、若し三力別々なる時はその徳未だ顕れず。なんとなれば行者に精進修行の徳ありと雖も、若し本尊の大悲加持を蒙らずんばいずれによりてか四魔の障難を払ひて向上進取することを得んや。行者に進取の功あり、本尊に大悲の徳ありと雖も、若し生佛の体性、本より別ならば、何によりてか能令三業同於本尊の境に至ることを得んや。しかるに、行者の三密も、本尊の三密も、その体性同一の六大なるゆえ、無障無礙にして入我我入することを得る。是全く法界力の致す所なり。故に疏主三蔵は「この三密、合するをもっての故に則ちよく不思議の業を成就する也」(大毘盧遮那成佛經疏卷第十息障品第三之餘「以我功徳力故。以如來加持力故。以法界平等力故。以此三縁合故。則能成就不思議業也。」)と釈し玉ヘリ。しかるに本尊大悲の明月も無始無終にして法界に遍じ、六大無礙の虚空も亦無始無終して法界に遍ずるが故に、行者の信水だにあらば三力具足して妙感妙応することけだし一念の頃にあり。