佛教採用の一理由
聖徳太子が佛教を盛にしたことに就いて、今日では格別に攻撃する人も無くなりつつあるが、一時國學者などは歴史の文を曲解してまでも惡口を謂つたので、譬へば推古天皇の十五年に神祇を祭祀することを怠つてはならぬと謂ふ詔勅が出て居るが(注)、これだけは太子の意志でなくて、推古天皇の思召であると解釋し、太子攝政時代の中の事實にまで斯の如き選り別けをして太子を攻撃した。之は今日の史眼から見れば謂はれの無いことで、太子は佛教を盛にすると共に神祇をも崇敬せしめたに相違無い。それに就いて考ふべきことは當時佛教の如き新しい宗教を取り入れる必要が日本にあつたことである。之は明治の維新でもわかるが、維新以後迷信に關する淫祠を禁じ、或は巫女の職業を禁じた樣なことは、太子の時代に於ては最も必要があつたに違ひない。日本の探湯の刑罰、或は蛇を瓶の中に置いて之を訴訟の兩造者に取らせることなどは隋書にも出て居るくらゐであるから、一般に行はれて居つたに相違ない。かゝる迷信を除く爲には、當時最も合理的に進歩した宗教と謂はれる佛教の如きは極めて必要であつた。・・・太子時代に輸入された佛教の極めて理論的であることは、太子の著述なる三經疏に據つても知ることが出來る。
(注、(日本書紀・推古)十五年春二月庚辰朔、定壬生部。戊子、詔曰「朕聞之、曩者、我皇祖天皇等宰世也、跼天蹐地、敦禮祗、周祠山川、幽通乾坤。是以、陰陽開和、造化共調。今當朕世、祭祠祗、豈有怠乎。故、群臣共爲竭心、宜拜祗。」甲午、皇太子及大臣、率百寮以祭拜祗。