福聚講

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妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)・・11

2024-01-11 | 諸経

妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)・・11

妙法蓮華経秘略要妙巻第八目録

観世音菩薩普門品の二

二婬欲過患 四事理常念 八瞋恚過患 十慈悲観相 十二愚痴過患 十四因縁観相 十六解毒秘趣  十八女人七去 十九三密互具 果報男女 修因男女 廿六二福無異 二十八後問答番 丗佛身分別 丗二身土相配 丗三土機相當 丗四支佛二類 丗七梵王説字 丗七倭與梵通 四十忉利天相 四十四多聞秘釈 五十婆羅門秘 五十二比丘三義 五十三苾蒭五徳 五十四通別二受 五十五大小戒相 五十六佛制絹綿

    妙法蓮華経秘略要妙第八普門品の二

二には意の機に應ずるに二。初めには三毒を明かすに、初めには貪婬を離る。

「若有衆生多於婬欲。常念恭敬觀世音菩薩。便得離欲。」

「若有衆生」とは此の一句は摠じて三毒を具せる人を出す。或は三毒俱に増多なるものあるべし。或は一毒二毒偏増なる人もあるべし。

「多於婬欲」とは已下正しく別句なり。其中に此の一句は別して貪婬多なる相を出す。凡そ貪に多種あり。財寶を貧し、男女の色を貧し、諸の飲食を貧し、睡眠を貧し、舎宅・衣服・車馬・坐臥の牀等を貧し、或は種々の音聲伎藝を貧し、又は人の奉ること恭敬を貧じ、名聞を貧じ、乃至は花を愛し、柳を好み、鳥を弄び、月を娯む。凡そ一切我心に随順する境界に於いて執著を起すは皆悉く貪欲なり。其の中に一切有情の溺易きこと婬欲に過ぎたるはなし。謂く婬欲多き者は禽獣をも擇ばず、高墻廣壍をも越へて悪名聞をも憚ず、徳行に乖くことをも顧ず。周の幽王は褒姒を愛して犬戎に國を失ひ、殷の紂王は妲己を寵して三族を夷げらる。呉の夫差は西施に迷って姑蘇城を艸莽の地と成し、唐の玄宗皇帝は貴妃に溺れて安禄山が為に長安城を逐出され、遂に馬塊の坡に於いて貴妃を縊り殺されて空しく其歎に沈み、天竺の術婆伽(じゅつばが)は婬心火を起こして自ら焼け死ぬ(大智度論巻十四に天竺の國王妃である拘牟頭が漁師の術婆伽の思いに応えようとしたことが載っており、法苑珠林にもある)。婬欲の過無量なり。勝て計べからず。況や邪に他人の妻を犯し、他の夫と密通するをや。唯現に苦難に遇ふのみにあらず、當来に地獄に堕しては、或は銅柱を抱き、或は熱鐵の牀に臥し、若し刀林に赴けば劔葉肌を割き、利し肉を刺す。若し地獄の業盡て鬼趣に入れば、欲色鬼と成りて、種々に變化して人を誑かし、或は女身と成りて人と交會す。若し又畜生に入りては鴿雀鶩鴛等の中に入りて婬色に縛著し、偶人間に出れば無根二根と成り、或は妻あって貞良ならず、常に是を苦とす。乃至帝釈の三十三天の王たる、猶舎脂夫人を執するが故に脩羅と闘諍して憂苦絶る事なし。(雜阿含經では、舎脂は阿修羅族の王の娘であった。阿修羅王は帝釈天に舎脂を嫁がせたいと思っていた。が、帝釈天は待ちきれずとうとう舎脂を力ずくで奪い、凌辱した。それを怒った阿修羅王が帝釈天に戦いを挑むことになった。凌辱された後の舎脂は戦の最中であっても逆に帝釈天を愛してしまったことに阿修羅はさらに怒り、争いは天界全部をも巻き込んでしまった。阿修羅は復讐に燃える悪鬼となってしまった。力の神である帝釈天に勝てる筈もなく敗れた阿修羅族はこれをきっかけに天界である忉利天と善見城から追放されてしまう)。此れ婬欲の過患の相なり。次に釈名を云ば、他の男女を貧愛するを婬と云、我が身を愛するを欲と云。或は自他に通じて愛するを欲と云。此の婬欲のみ過患なるに非ず、財寶・田宅等の一切の欲、皆膠の如く黐(とりもち)の如くにして離るること難き者なり。

「常念恭敬観世音菩薩」とは、此の一句は機を明す。此れ天性婬多き人、宿善発起するが故に婬心を滅せんことを希ふなり。「常念」の二字をいはば是に事理の二種あり。事の常念とは晝夜十二時行住坐臥に観音の神力を念じて忘るる事なき是なり。理の常念とは此れに亦四教の異あり。

初めに蔵教の常念とは、或は自他の身の内外不浄にして三十六物の不浄悪露充満せるを観じ、或は死想より始めて白骨想に至るまで(九想なり)一一に観じて婬心を遠離し、或は色法を分析して一極味に至て所執の男女の身の本来空なることを知解し、或は心識を析破して一刹那に至て、能執の著心の無體なることを悟る。此等の観は皆三蔵の観音を常念するなり。

二に通教の常念をいはば、諸の男女の境界は皆因縁より生ずるを以て自性全く空なりと常に観じ常に照らして欲情を自滅せしむ。是は大乗即空の観音を常念するなり。

三に別教の常念とは、初めには即空の観を用て凡夫實有の執を破し、次には假有の観を以て空相に著する執を破す。後には非空非假と解して空假の二邊を離れて中道に随順す。此れは別教の観音を常念するなり。

四に圓教の常念とは(是正しく法華の意)男女の境界より始めて一切諸法本来融通一味にして別體なしといへども、又事相を泯ずるにも非ず、無量の相即ち理なり。一理即ち無量の相なり。喩ば鏡の面に万象の影を浮れども而もこの万象鏡を離れざるが如く、男女等の相に即して法界法性なれば、執する我が身も法性なり、執せらるる男女の相も亦是法性なり。何か執著する者なる。誰か愛せらるる者なる。能愛所愛畢竟無相なるが故に。而も一切の相を具せり。一切を存しながら而も自他の隔を在せざるが故に、愛著の心、都て歇息す。此れは断ぜずして自ら除く方便なり。是を中観の観音を常念すと云なり。又かくの如く念ずるは、此の正念の體即ち観音なり。何となれば能念の行者と所念の尊と、その體隔てなきが故なり。前の題目の下の五隻の釈の中に「観」をば中道正観とし、「世音」の二字を實相の妙境と云へるは正しく此の「常念」に當れり。

問、中道正観を「念」とすることは、其儀明らかなり。「常」と名ける義如何。

答、諸法實相と念ずれば諸法皆一味なるが故に十界も無別なり。三世も一味なり。三世隔てなきときは初中後もなし。初中後なきは豈是常住の義にあらずや。亦復知るべし、此の實相の観を作ん人は、唯一時一座のみの修行にてはあるべからず。語黙動静十二時中に不断に此の念を運ぶべし。是事理相応の常念なり。唯一時一念のみにして出観しては又違順の境界に渉て悪愛喜怒せば平等の知見皆徒になるべし。尒云て暫時の勤行は一向に効なしと云には非ず。一時の正観も亦無量の罪を滅するなり。能く此の際を辨へて大乗を疑ず、亦實相に誇ること莫れ。要唯行ずるにあるのみ。「恭敬」とは、若し事の常念に約せば菩薩の智慧神通の廣大なることを信仰して疎慢の意なく、叮嚀に敬ふなり。若し理の常念に約せば外書に「敬とは一を主として適くことなし」と云へるが如く(羅山「敬は主無適の謂なり。我が心二なく他なき時は存せずといふことなし」)實相の一理に住して二邊に堕せざるを云。此の一理をだにも恭敬する時は、三毒を除くのみにあらず、世間の珍寶出世の法財一切の希願望みに任せて圓滿すべし。

問、若し此の常念恭敬を作す人は、口に名號を唱へ身に尊像を拝する事をば用ひまじきや。

我嘗て禪者の示を聞くに、唯心中の佛を知れ。木佛は火を度らず、金佛は鑪を度らず、泥佛は水を度らず、皆是幻化虚妄にして真實の佛にあらず。五臺山に文殊なし、唯你が目前の用處始終異ならず、處處疑はず、此箇是活文殊と云が故に。(『碧巌録』九六則「趙州三轉語」の「偈」に「泥佛不渡水。神光照天地。立雪如未休。何人不雕偽。」)。称名礼拝をば一向に捨つべしと見えたり。如何。

答、夫れ中道正観の前には諸法實相の故に塵塵の諸法皆悉く法性實際なり。豈称名礼拝の二事を隔てて是のみ實相に非ずと云はんや。名号を唱へながら其の音聲の縁生(假観)、無性(空観)、より中道の理に入りて無心無念の田地に至らば、真實の常念恭敬これに過ぎたるはあるべからず。又復次に唯観音を念ずるのみにあらず、若しは彌陀を念じ、或は釈迦に歸するも一一の佛皆法界に周遍して一佛即諸佛、諸佛即一佛なりと念ずる、是真の弥陀、是真の釈迦なり。或は一巻或は一偈一句の文を讀、又は一遍の真言を誦するにも此の法性平等の観を作さば、啻其の功徳無量なるのみにあらず菩提の妙果即疾に得べきものなり。勤むべし励すべし、信ぜずんばあるべからず。彼の禪者の泥木銅像是真佛に非ずと云は、人をして心外の境を執せざらしめんが為の方便なり。而るを方便を解せざる者の話頭を認めて實と思を作さば大きに乖ることあらん。慎むべし、慎むべし。

「便得離欲」とは、應を明かす。事理の常念共に婬欲を離るる利益あるべきなり。

 

 

 

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