舎利弗、慢阿難語(あなんをあなづれること)第六
今昔、天竺に佛の御弟子達多く在ます中に、舎利弗は智恵第一の人也、阿難は有學の人にて智恵浅し。然れば舎利弗、常に阿難を慢り給ふ。阿難の思はく、「我れ何で舎利弗に勝む」と思て、仍に風を
病て臥給へり、枕の邊に粥を盛て置たり。舎利弗、此を訪はむが為に阿難の所に来り給たるに、
白衣にして法服を不着ず。其の時に、阿難、此の粥を未だ不用ずして、舎利弗に与へ奉れり。舎利弗、其の粥を食し給ひつ。其の時に、阿難、莚の下より草一本を取出して舎利弗に授て云く、「此れ、速に大師の御許に持参り給へ」と舎利弗、此の草を取て、阿難の教の如く、佛の御許へ参り給ふ間に、
途中にして我が手足の爪を見るに、皆、牛の爪に成にけり。然れば舎利弗、驚き恠て、佛の御許に
いそぎ参て此の事を問ひ奉る。
佛の宣く、「汝が身は此れ既に牛也。持来れる草は亦、汝が食也。但し此の事、我れ不知ず。速に阿難の所に還り至て可問き也」と。舎利弗、佛の如此き宣ふに弥よ聞き驚て、阿難の所に走り還て此の由を阿難に告ぐ。阿難の云く、「汝ぢ當に知るべし、袈裟を不着ず、咒願を不為ずして人の施を受
くる比丘は、此れ畜生の報を得る也。其れに慚无きが如くに我が施を受け給ひつ。然れば、此の
故に此の報を感ずる也」と。其の時に、舎利弗、心を至して能く懺悔して、此の報を轉じつれば
爪も直り本の如く也。此れを以て思ふに、「比丘は必ず袈裟を着て人の施をば可受き也」と。亦、人
の施を受ては、必ず咒願すべき也。されば末代の比丘等、此の事を聞き、必ず袈裟を着して人の
施を可受し。亦、尤も咒願(法会または食事の時に、施主の願意を述べ、幸福などを祈ること)すべき也となむ語り傳へたるとや。
今昔物語
今昔、天竺に佛の御弟子達多く在ます中に、舎利弗は智恵第一の人也、阿難は有學の人にて智恵浅し。然れば舎利弗、常に阿難を慢り給ふ。阿難の思はく、「我れ何で舎利弗に勝む」と思て、仍に風を
病て臥給へり、枕の邊に粥を盛て置たり。舎利弗、此を訪はむが為に阿難の所に来り給たるに、
白衣にして法服を不着ず。其の時に、阿難、此の粥を未だ不用ずして、舎利弗に与へ奉れり。舎利弗、其の粥を食し給ひつ。其の時に、阿難、莚の下より草一本を取出して舎利弗に授て云く、「此れ、速に大師の御許に持参り給へ」と舎利弗、此の草を取て、阿難の教の如く、佛の御許へ参り給ふ間に、
途中にして我が手足の爪を見るに、皆、牛の爪に成にけり。然れば舎利弗、驚き恠て、佛の御許に
いそぎ参て此の事を問ひ奉る。
佛の宣く、「汝が身は此れ既に牛也。持来れる草は亦、汝が食也。但し此の事、我れ不知ず。速に阿難の所に還り至て可問き也」と。舎利弗、佛の如此き宣ふに弥よ聞き驚て、阿難の所に走り還て此の由を阿難に告ぐ。阿難の云く、「汝ぢ當に知るべし、袈裟を不着ず、咒願を不為ずして人の施を受
くる比丘は、此れ畜生の報を得る也。其れに慚无きが如くに我が施を受け給ひつ。然れば、此の
故に此の報を感ずる也」と。其の時に、舎利弗、心を至して能く懺悔して、此の報を轉じつれば
爪も直り本の如く也。此れを以て思ふに、「比丘は必ず袈裟を着て人の施をば可受き也」と。亦、人
の施を受ては、必ず咒願すべき也。されば末代の比丘等、此の事を聞き、必ず袈裟を着して人の
施を可受し。亦、尤も咒願(法会または食事の時に、施主の願意を述べ、幸福などを祈ること)すべき也となむ語り傳へたるとや。
今昔物語