福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験その71

2014-07-10 | 四国八十八所の霊験
49番から50番繁多寺までは2.35キロメートルにすぎませんが毎回50番繁多寺近くになって迷います。
人家の中や墓地をとおりますが道しるべもなく心細くなります。すぐ近くなのに何度も人にききました。

 50番繁多寺の説明版には「孝謙天皇の勅願により天平勝宝年間(8C中頃)に行基により開創(本尊薬師如来)、このとき天皇から数流の旗を賜ったので「旗多寺」といわれたのが「繁多寺」となった。「一遍聖絵」によると正応元(1288)年一遍上人が最後の遊行に出られたとき44番大宝寺45番岩屋寺を巡拝して当寺に三日間参篭し亡父如仏のために三部経を奉納した・・・」とありました。、弘安2年(1279)には後宇多天皇の勅命をうけ、この寺で聞月上人が蒙古軍の撃退を祈祷したり、応永2年(1395)には後小松天皇の勅命により泉涌寺26世・快翁和尚が、繁多寺の第7世住職となっとされます。さらに江戸時代には四代将軍・家綱念持仏の歓喜天を祀るなど、寺運は36坊と末寺100数余を有するほどの大寺として栄えたときもあるようです。しかし澄禅「四国遍路日記」(1653)には「繁多寺、この寺は律寺にて昔六十六坊のところなり。實に大門の跡より二王門までは三町ばかりなり。本堂二王門には雨もたまらず塔は朽ち落ちて心柱九輪傾いて哀れ至極なり」とあります。今は真言宗ですが江戸初期は律宗だったのでしょう。それにしてもどこも寺は有為転変を繰り返しているようで、諸行無常をみずから衆生に示してくださっているとしか思えません。今も当時の面影を残して広い境内です。そして、寺容はそれなりにととのっています。
19年暮の人気のない繁多寺では御住職自ら納経してくださいました。「どちらから?」と声をかけられ「東京です」と答えました。
納経のとき一言でも言葉をかけていただけるとぐっとありがたくなります。


 十四世紀室町時代ごろ大干ばつで村人が苦しんでいるとき当時の住職覚了師は穴を堀りそのなかで雨乞いの行をしたまま10日目に入寂し23日目に雨が降ったということです。 壮絶な札所住職の生き様です。
 
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