福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

雲伝神道( 和田大円述 小林正盛編)について等・・2

2021-10-24 | 法話

雲伝神道( 和田大円述 小林正盛編)について・・2
第二章、神道の本体
雲傳神道は赤心(清き心)をもってその本体として居る。「赤心(きよきこころ)」を本体として「黒き心(きたなきこころ)」と区別をしておる。「赤心」はすなわち本傳の主体であって天津教国津教などがその作用である。皆分に応じて日々の務めをするはこれ「赤き心」の働きから現れるのである。赤心は仏法でいえば「本有の浄菩提心」のことであって、これから種々の作業が現れてくるのである。竜猛の「菩提心論」の中に、勝義(智慧)・行願(慈悲)・三摩地(禅定)の三種の浄菩提心を説いておる(金剛頂瑜伽の中に阿耨多羅三藐三菩提を発す論「菩提を求めるものは先ず菩提心をおこして菩提の行を修す。既に是の如くの心を発しおわって須らく菩提心の行相をしるべし。その行相とは三門を以て分別す。諸仏菩薩昔因地にいましてこの心を発しおわって勝義・行願・三摩地を戒と為す。乃し成仏に至るまで時として暫くも忘るることなし。ただし真言法の中にのみ即身成仏するがゆえに是れ三摩地の法を説く、諸経の中に闕して書さず。一には行願、二には勝義、三には三摩地なり・・」)のはこれ自己内心の赤心である。日本国民の本来具有せる「赤き心」が雲伝神道の本体であり骨髄である。それでは日本書紀神代の巻岩戸章、素戔嗚尊のやうな「赤き心」の所有者であるべきはずの神様が「黒きたなき心」を以て姉様の大霊日尊(天照大神)をお苦しめになった。こういふことをした神様が上位の神となっておるのはいかなる理由であろうかといふ疑問が生じてくる。ここが普通神道家と雲傳の説とおおいに異なる所である。高天原時代における素戔嗚尊の御姉君に対する悪作業も見な治国平天下の大理想と一致しておるのである。何故かといふとこの素戔嗚尊の悪作業に由って刑法・治罪法等が制定せられたのだってそれは恰も仏教教団に於ける破戒の六群比丘(釈尊在世時に徒党と組んで悪行を繰り返していた難陀・跋難陀・迦留陀夷・闡那・阿説迦・弗那跋の僧)等の為に釈尊が二百五十の戒律を制定せられて他人の悪業を止められたのと同様であって、六群比丘の出現は戒律制定の為の権化であると説かれているが素戔嗚尊の出現やその悪作用等も亦これと同じ意味である。ここに素戔嗚尊か天照大神が、天狭田・長田を御田として(「天照 大神,天 狭 田 ・長 田を以 て御 田 とした まふ 」〔日本書紀 神代 上 第7段(本 文)〕)
春に種子をまかれたその畔を毀ったり、秋には天斑駒を田の中に放ったり、或いは姉神が新嘗の新宮に屎を放つといふやうな悪作業も畢竟は治国天下の原由となるのである。今の神道家は神といふものにたいしてその解釈を異にしておる。天神七代(日本書紀では、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)、(以下は対偶神。二神で1代と数える)埿土煑尊(ういじにのみこと)・沙土煑尊(すいじにのみこと)、大戸之道尊(おおとのじのみこと)・大苫辺尊(おおとまべのみこと)、面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の7代)
は佛教から見れば真如の本体法性の六大源底であり哲学者の所謂実在界に相当し、伊弉諾伊弉冉二尊以下は現象界となるものであって本居宣長・平田篤胤等はこれらの深意は不可解のことである。いふまでもなく法性の六大には善悪・邪正・是非・曲直が具に備わりそれを根底として種々相が縁起してくるのである。また神代において「天の八衢」(古事記「爾に日子番能邇邇芸命、天降りまさむとする時に、天の八衢に居て、上は高天の原を光し、下は葦原中国を光す神、是に有り。故爾に天照大御神、高木神の命以ちて、天宇受売神に詔りたまひけらく、「汝は手弱女人にはあれども、伊牟迦布神と面勝つ神なり。故、専ら汝往きて問はむは、『吾が御子の天降り為る道を、誰ぞ如此て居る。』ととへ。」とのりたまひき。故、問ひ賜ふ時に、答へ白しけらく、「僕は国つ神、名は猿田毘古神ぞ。出で居る所以は、天つ神の御子天降り坐すと聞きつる故に、御前に仕へ奉らむとして、参向へ侍ふぞ。」とまをしき。・・」)等と称して「彌」の字を頻りに用ふるが「彌」とは「いや」といふ意味である。高天原にいろいろの「街衢まち」があるといふことであって・・現象界に種々相の現れるのはその真の体性が実在界に存在するから影をこの現象界に映現するのである。真如についてもこれと同様であって、真如の大海に大波小波の現起するのは実在を離れて現象のみ存在すべからざる理を知るべきである。要するに仏教の権大乗の説からいふても実大乗から説いても(天台宗・華厳宗が自宗を実大乗といい、三乗を説く法相宗・三論宗を権大乗という)同一であって真如凝然不作諸法(真如は凝然として何の作用も起こさない)の法門から進んで真如これ万法、万法これ真如となり、密教の法性の六大から縁起する法門も、この天の八衢を説くのもみな同一の意味が含まれているのである。また神々に於いて上位の神様と下位の神様、善き神様と悪しき神様のあることも心得おくべきである。瓊瓊杵尊に反抗した神もあることを知らねばならぬ。
その瓊瓊杵尊がお伝えになった八咫鏡は印度の梵天の鏡に酷似しておる。梵天は鏡と独鈷とを所持しておるのであるがその梵天所持の鏡と八咫鏡とははなはだよく似ておるのである。それから天孫人種が有形の神としていたるところに存在しておると考えたのは当を得たことであって高天原の存在についても古来未熟の者には天上にあると説いたが・・機根の優れたものには至る所に高天原は存在すると伝えるのである。これ大日経疏に「如来有応のところ此の土にあらざるはなし、ひとり三界の外にのみあるにはあらず」( 入眞言門住心品第一)と説けると同様である。慈雲尊者は常に神の遍満せるところを高天原とおおせられた決して天上天下などの区別はない。

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