福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんが先日の秩父巡礼の記録を作ってくださいました

2014-11-13 | 定例会のお知らせ
祝 福聚講秩父三十四観音霊場巡拝成満

福聚講(高原耕昇講元)は、11月9日(日)、この日、結願となる、第6回目の秩父三十四観音霊場巡拝行を行った。この日の、巡拝は、第30番札所から、第34番札所の計5ヵ寺と、秩父神社で、いずれの札所も秩父観音霊場中では、距離が離れて点在しているため、効率よく、巡拝するため、自動車を利用して周回した。

午前9時、西武秩父駅前の、レンタカーショップ前、集合。高原講元と、先達のAさんが、予め、用意して戴ただいていたレンタカーと、Bさん(女性)のご好意で自身運転の自家用車を提供して戴ただいた、計2台の自動車に分乗して、スタートした。

秩父の朝は、生憎の曇り空で、低く雨雲が垂れ込め、武甲山の中腹付近は、霧で覆われていて、肌寒さを感じる天気だった。しかし、参加した講員の方々は、めいめい、この日が結願で、満行になることに、期待と感激の念を胸に秘め、いつもより、昂揚していた様子だった。言葉少なく、緊張した面持ちの中にも、喜びに溢れていたようだった。

レンタカーは、高原講元が、運転。Bさんは、自身が運転して、30番札所に向かう。30分後、到着。30番札所・瑞龍山・法雲寺。臨済宗建長寺派・本尊 如意輪観世音菩薩。なるほど、ここまで、歩きの巡礼では、相当距離があり、歩行時間もかかるようだ。秩父観音霊場は、今年は、甲午歳(鬼の衛馬)に当たり、12年に一度の午歳に、普段は、ご本尊は、秘仏として、厨子の扉が閉じられ、拝顔できないのだが、総開帳として、34寺の御本尊とじかに、拝顔できるという、有り難いご縁を戴ける機会が、与えられたのである。そして、この総開帳は、11月18日(火)で、行事が終了することになっており、徒歩で、巡行するには、時間が切迫しているため、期間内に成満するためには、やむを得ず、車を使わざるを得なかった。

緩やかな石段の階段の参道の両側に、半円形に刈り込んだ、カエデ,モミジ,マサキなどの低植木が、並び立ち、我々を、迎えてくれる。本堂に着くまで、庭園の美観に心を和ませながら、歩き進む。実に、清清しい心持である。都塵を離れた別世界だ。

観音堂は、六間四面。唐様の方形造り。元和元年(1319年)、建長寺の道隠禅師が、如意輪観音像を、唐から奉持したと伝えられている。このお像は、唐の玄宗皇帝の作といわれる。皇帝が、戦場にあって、楊貴妃の冥福を祈り、観音の御心にすがる真情がうかがえて、美しく尊厳に満ちたものだという。また、観音堂の庭、左手にある樹高20メートル、目通り周囲2・5メートルの桧葉が威厳を誇るように立っている。樹齢365年。開祖道隠仏恵禅師のお手植えになるもといわれている。また、同寺には、西国・坂東・秩父の日本百箇所の観音霊場となつた史実の最古の記録を物語る巡礼納札、天文5年(1536年)付がある。(同寺由緒より)

すっかり定着した福聚講・古寺社巡拝の際の、礼拝作法として、本堂内陣に入れないときの作法として、境内通路や、本堂前の境内で、敷物を敷き、端正に正座して、読経する。やはり、勤行・読経する時は、背筋を伸ばし、臍下丹田に、呼吸し、正座して行うと心も精神も、ピンと張った気がする。これが、猫背で、立ったり、してでは、気合がはいらず、仏様に申し訳ない。

この所作は、日ごろ、便利・快適な日常生活行動を、一端断ち切り、軽佻浮薄、安易放縦の中にいる自分を、ひとり、静寂と沈黙の中で、緊張と孤独の重さに耐えられる強靭な精神を形造る、瞑想も伴う方法だと思う。仏様も、結跏趺坐で座っておられる。お釈迦様の彫像や絵図の造形は、例外なく、坐像である。この点、キリスト教のイエスの像は、殆どが、立像。磔刑像が多い。と対照的で文化の違いが面白い。ただ、観音様は、いつ何時、レスキュウ-で出動する必要があるため、坐像はない。立像である。

今回は、巡拝満行とあって、高原講元様から、角田に、巡拝する各寺に伝わっている御詠歌を詠唱するよう、指示があった。決して、人様の前でご披露するような手合いではないのだが、下手は下手なりに、講員の皆さんが、仏様から、拝願を喜んでくださる一助になるならば、という思いで、清水の舞台から飛び降りたのだった。御詠歌の中でも、節回しが難しいといわれる、「木揚」と呼ばれる節(メロテ“ィ)で、詠唱させていただいた。ひとり、独唱するのは、これが始めての経験だった。やはり、緊張して、声が、擦れたり、上ずったり、肝心の「ツヤ回し」「アヤ回し」など、特に、教本でない、寺ごとに変わる御詠歌の詠唱は難しかった。お聞き苦しいところ、多々在りでしたが、すみません。本来は、鈴鉦を鳴らしてお唱えするのだが、時間がかかりそうなので、詠唱だけにした。なお、角田の御詠歌は、密厳流遍照講詠歌である。

話では、御詠歌を詠唱する人口が、年々、激減しているという。これまで、ある流派では、20000人だった会員は、今年は、6000人に激減しているということである。仏を賛美する方法は、いろいろあるけれども、御詠歌もその一つである。御詠歌は、平安時代から続いている芸術文化で、和歌・和讃の韻律を踏んで物語られる奥ゆかしい音曲である。こうした御詠歌が廃れてゆくというのは、哀しく、嘆かわしいことだ。現代世相は、今、長調が、主流になった華やかな音楽に慣れきった若い世代が、短調の哀切を帯びた音曲には見向きもしないのだろう。しかし、子守唄などの短調メロデイは、人の悲しみを癒すことが出来るのだが、いまや、子供をおんぶして「ねんねんころり。。。」と口ずさむ母親はいないだろう。こうした、短調メロデイがはやらないのは、一種の文化衰退現象で、人間の深い悲しみや苦しみが解からなくなっているからだろう。

それに、日本人全体に、宗教的感覚や超越的な事象に対することに、関心を示さず、感動もなく、宗教的な情操もなくしてしまった感がある。科学技術や景気経済など、自分に有利で得することには熱心に、関心を持ち、積極的に対処する。が、こと、宗教となると、鈍感と言うか、殆ど、関心を示さない人が多くなってきた。これは、戦後生まれの、いわゆる、団塊の世代の人たちが、宗教教育を排除してきた、戦後(敗戦なのだが)教育を受け、家庭でも、宗教の情操を育む習慣も機会もなかったからに違いない。軽薄なテレビ、マスコミの影響もおおきい。いま、この世代の人たちが、わが国の社会の中で中枢を占め、、指導的な役割を果たすようになって来た。そして、高齢化してきた。個人主張がまかり通り、ご都合主義が蔓延している。家庭・家族制度も、今、崩壊の度合いを進めている。核家族化で、孤独の生活を余儀なくされる老人が多くなっている。子供は、成人すると、みな、親から離れていくのだ。一度、離れると、再び戻るのは難しいらしい。世代の断絶がはなはだしい。これでは、国力は、脆弱化してゆくだけだと思う。杞憂であればいいのだが。

{御詠歌} 一心に 南無観音と 唱うれば 慈悲ふか谷の 誓いたのもし

車で移動中、道端の草木の茂る中に、馬頭観音と刻んだ、2メートル大の石碑があった。昔は、馬が、唯一の交通手段で、やはり、霊場巡礼の途中で、馬が倒れたのだろう。馬を、弔い、祈りの碑を立てる人の心根の優しさに触れる。

32番札所・般若山 法性寺・曹洞宗。本尊・聖観世音菩薩。黄金色に色ずいたイチヨウに、迎えられる。このお寺は、別名「秋海棠の寺」ともいう。
秋海棠は、「瑤珞草」とも呼ばれ、仏様を飾る花。瑶珞は、仏様が纏う宝石をつないだ髪飾り、胸飾り。花言葉 いつくしみの心(説明文より)

小高い丘の高台にあり、眼下には、紅葉したモミジが、色鮮やかに、周りの緑の木々に映えて美しい。さらに、勾配のある階段を上がると、ごつごつした岩肌の岸壁が現れる。見ると、本堂の真裏は、高い所から本堂に、覆いかぶさるように壁岩がそそり立ち、大きく抉られた洞穴の中に、本堂が佇んでいるように見える。

この日は、何処のお寺も、大型観光バスが乗り入れて、大勢の参詣者がお参りしていた。総開帳の終わりが近づき、残りわずかの日曜でもあるせいであろう。納経所は、長い行列を作っていた。この日も、高原講元様とCさんが、御朱印を戴く役をしていただいた。

本堂は、舞台造りになっていて、宝永四年(1707年)の建立。奥の院の舟
形をした巨巌に観音菩薩と大日如来を祭っていることから、「石船山」の山号もつけられている。(由緒より)

秩父観音巡礼は、古びた親しみのある、由緒ある小寺が多く、ひじ張るところなく、気安くお参りできるところだ。江戸時代には、都から、遠くはるばる、願をかけるために山里深い所であるにもかかわらず、庶民階級の人たちに、親しまれたのもうなづける。

{御詠歌}ねがわくば 般若の船にのりをえん いかなる罪も 浮かぶとぞきく

午前11時30分。31番札所・鷲窟山・観音院。曹洞宗・本尊・聖観世音菩薩。この寺が、秩父巡礼の最大の難所だという。高原講元様が、「ここでは、必ず杖を持参するように」との指示が飛んでいた。勾配のある、急峻な高さのある階段。上り口に、赤い御影石に、「石段 296段 般若心経 276文字 廻向20文字 階段は、お経の数に合わせてあります お経を唱えながら登ってください」と刻まれた但し書きがあった。荒く息を吐きながら、階段をあがる。お経をお唱えするどころか、上がるのが精一杯である。だが、階段のすそには、いたる所に、石に刻んだ、和歌や俳句。そして、秩父巡礼参拝記念の碑が、立ち並んでいた。十二支霊場あり、秩父歌舞伎の先祖、坂東三十郎建立の碑ありと見世物があり、階段もあまり苦にならないで、境内に着く。そう、階段の上り口には、赤いペンキで色塗った杖が、数本用意されていた。急階段なので、杖のない人に、貸し出すために、寺が用意したものだった。

観音院の由緒に由れば、秩父霊場中随一の称ある景観を備えているという。ここを西方浄土として照見したのであろうとある。境内の岸壁に、南無阿弥陀仏の名号刻し、その下位に弘法大師の一夜彫りと伝えられる「鷲窟磨崖仏」がある。東奥の院には、数十体の石仏群像、山頂には、宝篋印塔がある。西奥の院にも、多数の石仏が安置され、さながら、幻想の世界に誘われる。という。本尊は、霊験記によると、畠山重忠が、狩猟の折、行基菩薩作といわれたご本尊が、姿を消してなくなったのを、鷲の巣の中からみつけ出し、堂宇を立てて、安置した。修験道の道場として、盛んであったが、明治時代の神仏分離と、度t重なる火災で、往時の面影を失ったという。昭和47年4月、再建された。山門の石造仁王尊は、信州の石工、藤森吉弥一寿の名作。像高4メートル。本邦第一という。

高い岩窟の下に本堂があり、一種独特の雰囲気がある。湿った空気が流れ、幽遠な気持ちを抱かせる。観法法印即身仏墓。(明治年代)が在った。西方浄土にむかって、自ら、死出の旅に出たのだろう。厳かな気持ちになる。明治の人の心魂とは、凄まじいものであったに違いない。壮絶極まる決死の決断の結果に違いない。今の我々にこのような、決断が出来るだろうか。仏に対する、疑たがい惑うこと無い信心と信念、ついこの前まで、こうした日本人がいたのだ。粛然とした思いにふけった。
こうして、高原講元様にご心配戴いた、31番札所は、無事過ごすことができた。今日は、車だったので、楽にこられたが、もし、歩いてであったら、一番難儀な所だということであった。

{御詠歌}みやま路を かきわけ尋ね ゆきみれば 鷲のいわやに ひびく滝つせ

ここ小鹿野町は、町中で文化財の保護に熱心な所で、町指定有形文化財が沢山ある。なかでも、森伊兵衛夫妻の像・2躯は、有名である。奈倉の豪商森伊の当主森伊兵衛(伊左衛門)夫妻の姿を森玄黄斎が、彫刻にしたものである。森伊は、生糸売買を業とし、森伊兵衛が、一代で築いたものという。玄黄斎は、伊兵衛の婿となり、芸術家として名声を博した。本像は、玄黄斎が、森家に入る前の天保元年(1830年)の作で、伊兵衛72歳の肖像という。後に伊兵衛夫妻没後、森家から大徳院におさめられた。伊兵衛像が像高17センチ、妻紀埜像が、像高22・5センチと小さな木造であるが良くその風貌をとらえ肖像彫刻としても見事なものである。あと、庚申塔、木造阿弥陀如来坐像などがある。観音院の隣りに、名倉山大徳院(曹洞宗)があり、そこに安置されている。

大桜山長福寺と刻んだ石柱を過ぎて、紅葉のトンネルをくぐりながら、、長く石板を組み合わせた参道を歩き、境内に向かう。
33番札所・延命山・菊水寺。曹洞宗・本尊・聖観世音菩薩。

土間の広い本堂。高い升目の天井には、所狭しと千社札が張られ、殆どが、茶色に変色していて、時代の古さを思わせる。外は、時折、、ぽつり、ぽつりと雨が落ちてきた。が,敢えて、傘を差すほどではなかった。

松尾芭蕉が、立ち寄ったらしく、芭蕉翁の碑が建つており、秩父市の文化財の指定を受けていた。
八人峠に出没した盗賊が、旅僧の導きで改心し、菊水の霊泉で、心身を洗い出家した。盗賊らは、旅僧から与えられた三体の聖観音像をまもり、草庵を結んで仏道に精進し、峠の通行の安全を祈願した。盗賊の一人が、草庵を、当地に移し、これが、同寺の草創だという。(由緒より)

面白いことに、秩父霊場の札所の寺の草創縁起は、例外なく、貧しく慎ましい庶民の哀歌の物語や、悪人の改心譚、旅僧の奇談によるものが多い。これは、寺の草創は、慎ましい暮らしの中で、畑や田植えを生業として、生きていた庶民たちが、生きるよすがとして一途に、仏にすがって、生きる、素朴だが、一徹な信仰の証のようである。現在とは、全く生活様式の異なる、中世・江戸の時代では、人々は、仏は、観念でなく、眼には見えないが、人の背後に存在する霊力を実感していたのだろう。不便極まりない、貧しい暮らしであったが、心や、精神的には、充実した信仰を持っていたのだと思う。

{御詠歌} 春や夏 冬もさかりの菊水寺 秋をながめに おくる年つき}

13時30分、雨が降り出した。ワイパーでフロントガラスをぬぐいながら、一路、最終寺の34番札所を目指す。途中、カーナビ頼りの運転で、地理方角がわからなくなり、迷つたりしたが、目指す札所に着いた。
 

34番札所・日沢山・水潜寺。曹洞宗・本尊・千手観世音菩薩。結願の札所に着いた。境内入口の石柱に日本百観音結願所と刻まれている。嗚呼、秩父霊場巡拝行も、ここで、打ち留めである。みんな、万感の思いが脳裏や胸にこみ上げてきたに違いない。双六の「上がり」に辿りついた時のような嬉しさに浸される。Cさんの提唱で、ここでは、観音経品偈もお唱えする。33番札所までは、この日のお唱えしたお経は、開経偈 懺悔文 三帰 三竟 十善戒 発菩提心真言 三摩耶戒御真言 般若心経 御本尊真言 御詠歌 廻向文 である。計画通り、巡拝するためには、観音経を省かざるを得なかった。が、ここ、水潜寺では、もう安心だ。思い切り、大声を上げて、観音経をあげよう。

34ヵ寺を、恙無く参拝したという達成感。充実感。満足感。様々な感情がこみ上げてくる。無事成満させて頂いた仏様に、感謝である。我々を指導いただいた高原講元様始め、先達として、迷わず順路案内して戴いたAさん、率先して、納経帳の御朱印を束ねて集めて戴いたCさん。絶えず、励ましの声をかけて戴いたDさん.今日、自家用車を動かして戴いた紅一点のBさん。などなど、皆さんの励ましに支えられながら、結願に辿りついた。この感激は、生涯忘れることはないだろう。

同寺の縁起に由れば、旅僧の指図で、村人たちは、観世音を信仰する様になり大旱魃から救われ、水が湧き出て、豊年となった。ここから、水潜寺が始まったという。ご本尊は、伝教大師の作といわれる。同寺の古縁起に由れば、百観音の大悲を一寺に集め、西国・坂東・秩父の各三十三の札所に、一ヵ寺を加え、水潜寺が日本百観音結願寺になったという。結願したら、本堂の崖下に、寺名の起こりの「水くぐり」の岩屋があり、巡礼を終えた人は、この岩屋で身を清め再生儀礼の胎内くぐりして命水を戴き心身共に清めてから、俗界に帰るのが慣わしになっているという。

観音堂は、大きな流れ向拝をつけた六間四面方形造りで、文政11年(1828年)の建築。内陣、外陣があり、境には、格子戸で仕切り、その上部に飛天像などの極彩色彫刻を入れ、組物は出組みで格天井を受け、鏡板には、円形の輪郭をとり、花鳥の様々が画かれている。本尊は、一木造りの千手観音。西国をかたどる西方浄土の阿弥陀如来。坂東をかたどる東方瑠璃光世界の薬師如来が祀られ、日本百観音結願寺の特殊性をだしている。結願寺にふさわしく、観音像が立ち並ぶ参道、反対側には、紅葉し手入れの届いた低木が見事に並んでいる。心洗われる光景だ。

{御詠歌} 萬代の ねがいをここに納めおく 苔の下より いづる水かな

興奮冷めやらぬところで、番外編で、丁度、今年、御鎮座2100年奉祝の秩父神社に詣でる。秩父神社は、人皇第10代・崇神天皇の御代11年(BC86年)、知知夫彦命が、神祖 八意思兼神を奉斎したことに始まり、今年は、御鎮座2100年を迎えたという。千年の時を超え皇室と神社、さらに、国民一人ひとりと紐帯が確かなものに、君民一体の国柄が末代まで続くよう祈念しているという。

また、秩父神社は、秩父の象徴として、鎮座する武甲山を、遙かに拝する里宮が、当神社の神域で、毎年、12月3日に行われる秩父夜祭は、武甲山に、感謝と鎮魂の祈りを捧げる神事である。永禄12年(1569年)甲斐の国、武田信玄によって、社殿は焼失した。そのあと、天正20年(1592年)9月、徳川家康が、大旦那となって、代官だった、成瀬吉衛門に命じて再建されたのが、現在の社殿である。日光・東照宮に似た、極彩色に彩られた彫刻群に覆われた豪勢なつくりになっている。

徳川家康の報徳にまつわる逸話が多い。「子宝子育ての虎」もそのひとつ。左甚五郎が、虎の彫り物を、拝殿前の四面に施してある。家康は、寅の年、寅の日、寅の刻生まれと言うことで、虎にまつわる話が多い。その一つ、子虎と戯れる親虎の彫刻は、甚五郎が、家康の威厳とご祭神を守護する使徒として彫刻したもと言う。当時の日本絵画画壇の狩野派では、虎の群れの中に必ず一匹の豹を描くことが定法になっていた。このため、甚五郎は、母虎を敢えて豹として描いていることが、特徴になっている。家康の「親の心得」四訓。同神社の神殿正面に掲げられている立て札から。

赤子には肌を離すな
幼児には手を離すな
子供には眼を離すな
若者には心を離すな

広びろとした境内、神社特有の清浄な雰囲気、折から、秋の季節の風物詩、見事な大輪の菊の花の展示がなされていて、黄・白・薄紫などの菊華が、研を競うかの様に陳列されていた。七五三もちかく、可愛いおべべを着せてもらい、両親に連れられ参詣する親子の姿も目立った。

15時30分、秩父観音霊場参拝行は、無事終了し、散会した。


福聚講の巡拝行は、秩父観音霊場の総開帳と、秩父神社御鎮座2100年と言う、おめでたい、稀有な機会に恵まれ、有り難い巡拝ができ、今年、一年の締めくくりにふさわしい行事だった。

秩父霊場参拝の巡礼から、数多くのことを学んだ。先ず、人は、正座して、姿勢を正して、仏に、対座すること。ひとりきりの自分になって、静寂・沈思の世界にひたり、五感の機能を鋭くして、感受性を高める努力を絶えず行うこと。そして、眼に見えないものに感応出来るよう心がける。これは、座禅と同類である。次は、歩くこと。机に向かって、考えることもさることながら、外に出て、歩くと、外側から、いろいろな刺激を受け、心身ともに活性化する。たしかに、昔の人たちは、歩きで、心身を鍛えたと思う。良寛・親鸞・道元、皆、遠距離の道程を歩いて、移動していた。乗り物がなかった時代だつたからといえば其れまでだが、これらの人たちは、たとえ、乗り物があっても、乗らず、ひたすら、歩いただろう。歩くことの効用を知っているから。イエスも、カント、西田幾太郎も、みな、歩いていた。歩くことと考えることは、同類項のようだ。

秩父巡拝で、片道2時間半の鈍行電車に乗ることが、苦痛にならなくなった。都内だと、移動時間を出来るだけ短縮しようと、苛苛、苛立ちがあるのだが、6回に及ぶ、鈍行電車に乗車して、すっかり、慣れっこになり、気が悠長になり、苦痛でなくなった。闇雲に、ただ、目的地に早く着くだけが能でなく、車窓の外、乗客の表情観察など、面白い。我慢・辛抱・忍耐などの「徳」が身についたようだ。諦めもあるかな?
ただ、電車の中では、何処も、全国共通の、同じ光景には、苦笑させられる。先ずは、見事に、みんな判で押したように、スマホと睨らめっこだ。そんなに見たく知りたい情報があるのだろうか。ただただ、感心する。

今回の巡礼行では、平均一回当たり、15000歩は歩いた。この貴重な体験を、日日の行動に生かそう。そう、高原講元様が、提唱されている、「マイ霊場巡拝」を実践し、一日、10000歩、時間にして、約2時間。幾通りかの歩行コースを造った。一石二鳥。体力つくりと信心を極める努力。コースには、寺院・神社・祠・地蔵・教会など、祈りができる所をいれてある。いずれの日か、私の「マイ霊場巡拝行」のケーススタデイとして、報告できればいいが。

御詠歌の詠唱を、もっと聞いてもらえるようにしなければならないな。今回の、巡礼でも、どこかのお寺で、団体の参拝グループが、御詠歌を斉唱していた。年配の男性が、頭を取り、ご婦人方が多かったが、助を、唱えていた。皆で、斉唱しているのを聞くのは、心が澄んでくるようだ。我々も、お唱え出来るようになると、礼拝の幅がひろがると思う。

ながなが、駄弁を弄しましたが、以上で、報告を終わります。感謝!(角田記)

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