福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

維摩詰所説經弟子品第三

2022-02-20 | 諸経

維摩詰所説經弟子品第三

以下部分的には聖徳太子の「維摩経義疏」等より解説すると、

まず舎利弗は「安座」の意味を維摩詰に心身に三界を現ずることなければどこにいても安座である、山林に入る必要はない、煩悩を断ぜずして涅槃に入る、これが「安座」のことである、と教えられ、

大目犍連は、「説法は無説無示。其の聽法者は無聞無得」と教えられ、

大迦葉は「凡夫も聖人も空であるから凡夫に食物を施してもそれは一切に施すことになる」と教えられ、

須菩提は「本来邪とか正とかの区別はない。邪とか正とかに捉われているのは間違いである」と教えられ、

富樓那彌多羅尼子は「本来、仏と外道の区別はない」と教えられているのである。

摩訶迦旃延は「法はもとより不生不滅である」と教えられ、

阿那律は「仏国土は色相を離れている」と教えられ、

優波離は「諸法は空である、これを知ることが戒律をたもつと言うことである」と教えられ、

羅睺羅は「利益も功徳を無いことが出家だ」と教えられる。

阿難は「佛は本来金剛身であるが五濁惡世に出て身を現わしているのは衆生を度脱線が為である」と教えられる。)

 

爾時、長者維摩詰自ら念ふ「疾に床に寝る世尊の大慈、寧ろ愍を垂れざらんや」と。佛、其意を知り即ち舍利弗に告ぐ「汝行詣して維摩詰に問疾せよ」。舍利弗白佛言「世尊、我彼に詣りて問疾するに堪任へず。所以者何。憶念するに我昔し曾って林中に於いて樹下に宴坐す。時に維摩詰來りて我に謂って言く『唯舍利弗、必ずしも是れ坐するを宴坐と為さざれ。夫れ宴坐とは三界に於いて身意を現ぜざる、是を宴坐と爲す。滅定を起たずして諸威儀を現ずる、是を宴坐と為す。道法を捨てずして凡夫の事を現ずる、是を宴坐と為す。心、内に住せず亦た外に在らず、是を宴坐と為す。諸見に於いて動ぜずして而も三十七品を修行す、是を宴坐と為す。煩惱を斷たずして涅槃に入る、是を宴坐と為す。若し能く如是に坐せば、佛の印可したまふ所也』と。時に我、世尊、是の語を説くを聞き默然として止み、報を加ふる能はず。故に我、彼に詣りて問疾するに任へず」と。

佛、大目犍連に告ぐ、「汝維摩詰に行詣して問疾せよ」と。目連白佛言、「世尊、我彼に詣りて問疾するに堪任へず。所以者何。憶念するに我昔、毘耶離大城に入り里巷中に於いて諸居士の為に説法す。時に維摩詰來りて我に謂て言く『唯大目連、白衣居士の為に説法すること當に仁者の所説の如くなるべからず。夫れ説法とは當に如法に説くべし。法には衆生なし、衆生垢を離れたるが故に。法には我有ることなし、我垢を離れたるが故に。法には壽命無し。生死を離れたるが故に。法には人有ること無し、前後際斷せるが故に。法は常に寂然たり。諸相を滅するが故に。法は相を離る、所縁無きが故に。法には名字無し。言語を斷ずるが故に。法には説あることなし覺觀を離れたるが故に。法には形相無し。虚空の如くなるが故に。法には戲論無し。畢竟空なるが故に。法は我所無し。我所を離れたるが故に。法には分別無し。諸識を離れたるが故に。法には比有ること無し。相待無きが故に。法は因に屬せず、縁に在ざるが故に。法は法性に同なり、諸法に入るが故なり。法は如に於いて随ふ、隨ふ所無きが故に。法は實際に住す、諸邊動ぜざるが故に。法は動搖無し、六塵に依らざるが故に。法は去來無し、常に不住なるが故に。法は空に順ず、無相に随ひ、無作に應ず。法は好醜を離れ、法は増損無し。法は生滅無く、法は所歸無し。法は眼耳鼻舌身心を過ぎ、法は高下無し。法は常住不動。法は一切の觀行を離る。唯だ大目連、法相は如是なり、豈に説くべけん乎。夫れ説法は無説無示なり。其の聽法者は無聞無得なり。譬へば幻士の幻人の為に説法するが如し。當に是の意を建てて爲に説法すべし。當に衆生根に利鈍有るを了じて善く知見に於いて罣礙する所無く大悲心を以て大乘を讃じ、佛恩を報ぜんと念ひ、三寶を斷ぜず、然る後に説法すべし』と。維摩詰、是の法を説ける時、八百の居士は阿耨多羅三藐三菩提心を發す。我、此の辯無し。是の故に彼に詣りて問疾する任へず」。

佛、大迦葉に告げたまはく「汝行きて維摩詰に詣りて問疾すべし」。迦葉白佛言「世尊、我彼に詣りて問疾する任へず。所以者何。憶念するに、我昔貧里に於いて行乞しき。時に維摩詰來りて我に謂ひて言く『唯だ大迦葉、慈悲心有りて而も普きこと能はず。豪富を捨てて貧に従ひて乞ふ。迦葉よ、平等法に住して次に應じて乞食を行ずべし。不食の為の故に應に乞食を行ずべし。和合相を壞せんが為の故に應に搏食を取るべし。不受の為の故に應に彼の食を受くべし。空聚想を以て聚落に入れ。所見色は盲と等し。所聞聲は響と等し。所嗅

香は風と等し。所食味は分別せざれ。諸觸を受くること智證の如く、諸法を知ること幻相の如し。無自性、無他性、本と自ら然らず。今則ち滅する無し。迦葉よ、若し能く八邪を捨てずして八解脱に入り、邪相を以て正法に入り、一食を以て一切に施し、諸佛及衆賢聖を供養して然る後に食すべし。如是に食す者は煩惱有るに非ず、煩惱を離るるに非ず。定意に入るに非ず、定意を起こすに非ず。世間に住すに非ず、涅槃に住すに非ず。其れ施す者有るとも大福無く、小福無し。益と為さず、損と為さず。是れを正に佛道に入りて聲聞に依らずと為す。迦葉よ、若し如是に食せば空しく人の施を食せずと為す』と。時に我、世尊よ、是の語を説くを聞きて未曾有なるを得、即ち一切菩薩に於いて敬心を深起す。復た是の念を作す。『斯の家、名有りて辯才智慧乃ち能く如是なり。其れ誰か阿耨多羅三藐三菩提心を發せざらんや』と。我れ是より來、復た人に勸むるに聲聞辟支佛行を以てせず。是の故に彼に詣りて問疾するに任へず。」

佛、須菩提に告げたまはく「汝行きて維摩詰に詣りて問疾せよ」と。須菩提白佛言「世尊。我、彼に詣りて問疾するに任へず。所以者何。憶念するに我れ昔、其の舍に入りて從ひて乞食す。時に維摩詰、我鉢を取り飯を盛滿して我に謂ひて言く『唯だ須菩提よ、若し能く食に於いて等しき者は諸法も亦た等し。諸法等しき者は食に於いて亦た等し。如是に行乞し乃ち食を取るべし。若し須菩提よ、婬怒癡を斷ぜず亦た與に倶はず、身を壞せずして而も一相に随ひ、癡愛を滅せずして明脱を起こし、五逆相を以て而も解脱を得、亦た不解・不縛・不見四諦・非不見諦・非得果・非不得果・非凡夫・非離凡夫法・非聖人・非不聖人、一切法を成就すと雖も而も諸法相を離るれば乃ち食を取るべし。若し須菩提よ、佛を見ず、法を聞かず、彼の外道六師、富蘭那迦葉(道徳否定論者)・末伽梨拘賒梨子(運命論者)・刪闍夜毘羅胝子(さんじゃやびらちし懐疑論者)・阿耆多翅舍欽婆羅(あぎたぎしゃきんばら順世外道)。迦羅鳩馱迦旃延(からくだかせんえん七要素説を唱えた)。尼犍陀若提子(にけんだにゃだいし禁欲主義のジャイナ教祖)等。是れ汝の師なり。其れに因りて出家し、彼の師の墮する所に汝も亦た隨ひて墮すれば乃ち食を取るべし。若し須菩提よ、諸邪見に入りて彼岸に到らず。八難に住して無難を得ず、煩惱に同じて清淨法を離る。汝、無諍三昧を得ば、一切衆生も亦た是の定を得るべし。其れ汝に施す者は福田と名けず。汝を供養する者は三惡道に堕すべし。爲に衆魔と一手を共にして諸勞の侶と作る。汝と衆魔及び諸塵勞と等うして異あることなし。一切衆生に於いて而も怨心有り。諸佛を謗し、法を毀りて衆數に入らず、終に滅度を得ず。汝、若し如是ならば乃ち食を取るべし』と。時に我世尊、此の語を聞きて茫然、是れ何

の言なるやを識らず、何を以て答ふるやを知らず。便ち鉢を置きて其の舍を出んと欲す。維摩詰言『唯だ須菩提よ、鉢を取りて懼るなかれ。意に於いて云何。如來所作の化人、若し是の事を持て詰らんに寧ろ懼るることありや不や』。我言『不也』。維摩詰言『一切諸法は幻化相の如し。汝今應に懼るる所あるべからざる也。所以者何。一切言説は是の相を離れず、智者に至りては文字に著せず、故に懼るる所無し。何以故。文字は性を離る文字あることなし。是れ則ち解脱なり。解脱相とは則ち諸法也』と。維摩詰是の法を説ける時、二百の天子は法眼淨を得たり。故に我、彼に詣りて問疾するに任へず」と。

 

佛、富樓那彌多羅尼子に告げたまはく「汝維摩詰に行詣きて疾を問へ」。富樓那白佛言「世尊、我、彼に詣きて問疾するに堪任へず。所以者何。憶念するに我昔、大林中に於いて一

樹下に在りて諸新學比丘の為に説法しぬ。時に維摩詰來りて我に謂て言く『唯だ富樓那、先ず當に定に入りて此人の心を觀じ然る後に説法すべし。穢食を以て寶器に置くことなかれ。當に是の比丘の心の所念を知るべし。琉璃を以て水精に同ずることなかれ。汝、衆生の根源を知ること能はず。發起するに小乘法を以てすることなかれ。彼れ自ら瘡無し、之を傷ふこと勿れ。大道を行んと欲せしに小徑を示すことなかれ。大海を以て牛迹に内るることなかれ。日光を以て彼の螢火に等しくせしむることなかれ。富樓那、此の比丘、久しく大乘心を発し中ごろ此意を忘る。如何んが小乘法を以て之を教導せんや。我れ小乘の智慧微淺なるを観ずるに猶ほ盲人の如し。一切衆生の根の利鈍を分別すること能はず』と。時に維摩詰、即ち三昧に入り、此の比丘をして自ら宿命を識らしむ。曾って五百佛の所に於いて衆の徳本を植ゑ阿耨多羅三藐三菩提に迴向す。即時に豁然として還りて本心を得る。是において諸比丘、稽首して維摩詰の足を禮す。時に維摩詰、因りて爲に説法す。阿耨多羅三藐三菩提に於いて復た退轉せず。我念ふ、聲聞、人の根を觀ぜずして應に説法すべからずと。是の故に彼に詣てて問疾するに任へず」と。

 

佛、摩訶迦旃延に告げたまく「汝行きて維摩詰に詣て問疾せよ」と。迦旃延白佛言「世尊、我、彼に詣て問疾するに任へず。所以者何。憶念するに昔、佛、諸比丘の為に略ぼ法要を説く。我れ即ち後に於いて其の義を敷演す。謂く『無常義・苦義・空義・無我義・寂滅義なり』と。時に維摩詰來りて我に謂ひて言く『唯だ迦旃延、生滅心行を以て實相法を説くことなかれ。迦旃延、諸法は畢竟不生不滅なり。是れ無常の義なり。五受陰の洞達して空にして所起無し。是れ苦の義なり。諸法は究竟して無所有なり、是れ空の義なり。我・無我において而も不二なるは是れ無我の義なり。法は本と不然なり、今則ち無滅なり。是れ寂滅の義なり』と。是の法を説ける時、彼の諸比丘、心に解脱を得たり。故に我、彼に詣て問疾するに任へず」と。

 

佛、阿那律に告げたまはく「汝行きて維摩詰に詣りて問疾せよ」と。阿那律白佛言「世尊。我彼に詣きて問疾するに堪へず。所以者何。憶念するに我昔、一處に於いて經行す。時に梵王有り、名て曰く嚴淨。萬の梵と倶に淨光明を放ちて我所に來詣し稽首作禮して我に問て言く「幾何か阿那律、天眼の見る所ぞ」と。我即ち答て言く「仁者、吾れ此の釋迦牟尼佛土の三千大千世界を見ること掌中の菴摩勒果を観るが如し」と。時に維摩詰、來りて我に謂て

言く「唯だ阿那律よ、天眼の見る所、作相と為ん耶、無作相なる耶。假使し作相ならば則ち外道五通と等し。若し無作相ならば即ち是れ無爲にして應に見ること有るべからず」と。世尊、我れ時に默然たり。彼の諸梵は其の言を聞きて未曾有を得、即ち爲に作禮して而して問ふて曰く「世に孰れか眞天眼を有する者ぞ」と。維摩詰言「佛世尊のみありて眞天眼を得。常に三昧に在りて悉く諸佛國を見たまふ。二相を以てしたまはず」と。

是に於いて嚴淨梵王及び其の眷屬の五百の梵天、皆な阿耨多羅三藐三菩提心を発し維摩詰の足を禮し已りて忽然として現ぜず。故に我、彼に詣りて問疾するに任へず」と。

 

佛優波離に告げたまはく「汝行きて維摩詰に詣りて問疾せよ」と。優波離白佛言「世尊、我彼に詣りて問疾するに堪任へず。所以者何。憶念するに昔者二比丘あり。律行を犯し以って恥と為して敢て佛に問ひたてまつらず。來りて我に問ふて言く『唯、優波離よ、我等律を犯す。誠に以って恥と爲して敢て佛に問ひたてまつらず。願くは疑悔を解きて斯の咎を免ることを得しめよ。』と。我即ち其爲に如法に解説す。時に維摩詰來りて我に謂ひて言く『唯優波離。重ねて此二比丘の罪を増すことなかれ。當に直ちに除滅すべし。其心を擾す勿れ。

所以いかんとなれば彼の罪障内に在らず外に在らず中間に在らず。佛所説の如く心垢るるが故に衆生垢る。心淨きが故に衆生淨し。心亦内に在らず外に在らず中間に在らず。其心然るが如く罪垢も亦た然り、諸法も亦然り。如を出ず。優波離の如き、心相を以て解脱を得る

時寧ろ垢有りや不や』と。我言く『不也』。維摩詰言く『一切衆生の心相も垢無きこと亦復如是なり。唯優波離、妄想は是れ垢なり。無妄想は是れ淨なり。顛倒は是垢。無顛倒は是淨。我を取るは是れ垢、我を取らざるは是れ淨なり。優波離。一切法は生滅して住せざること幻の如く雷の如し。諸法は相待せず。乃至一念も住せず。諸法は皆妄見。如夢如炎如水中月如鏡中像。妄想を以て生ず。其れ此れを知る者是を名けて奉律。其れ此れを知る者是を善解と名く』と。是に於いて二比丘言く「上智なる哉、是れ優波離の能く及ばざる所なり。持律之上すら而も能く説くこと能はざるなり」と。我即ち答て言く「如來を捨ててより未だ聲聞及び菩薩、能く其の樂説の辯を制すべきもの有らず。其の智慧明達は此の如しと為す也」と。時に二比丘は疑悔即ち除き、阿耨多羅三藐三菩提心を發し、是の願を作して言く「一切衆生をして皆な是の辯を得しめん」と。故に我、彼に詣りて問疾するにたへず。

 

佛、羅睺羅に告げたまはく「汝維摩詰に行詣し問疾すべし」と。羅睺羅白佛言「世尊。我れ彼に詣て問疾するに堪任へず。所以者何。憶念するに昔時、毘耶離の諸長者子、我所に來詣し稽首作禮して我に問ひて言く「唯羅睺羅、汝は佛の子なり、轉輪王位を捨て出家して道の為にす。其の出家は何等の利あるや」。我即ち如法に爲に出家功徳之利を説く。時に維摩詰來謂して我に言ふ「唯羅睺羅、應に出家功徳之利を説くべからず。所以者何。無利無功徳、是を出家と為す。有爲法は利有りて功徳有と説くべし。夫れ出家は無爲法と為す。無爲法中には無利無功徳なり。羅睺羅、出家とは彼無く此無く亦た中間無し。六十二見を離れて涅槃に處す。智者の受くる所、聖の所行の處なり。衆魔を降伏し、五道を度し、五眼を淨め、五力を得、五根を立て彼を悩まさず。衆雜惡を離れ、諸外道を摧く、假名を超越し、淤泥を出、繋著無く、我所無く、所受無く、擾亂無く、内に喜びを懷く、彼の意を護り、禪定に随ひ、衆過を離る。若し能く如是ならば是れ眞の出家なり」と。是に於いて維摩詰、諸長者子に語るらく「汝等正法中に於いて宜しく共に出家すべし。所以者何。佛は世に値ひ難ければなり」と。諸長者子言く「居士。我聞く、佛言はく『父母聽さざれば出家することを得ず』と」。維摩詰言く「然り、汝等便に阿耨多羅三藐三菩提心を發す。是れ即ち出家なり。是れ即ち具足す」と。爾時三十二長者子、皆阿耨多羅三藐三菩提心を發す。故に我彼に詣て問疾するに任へず」と。

 

佛阿難に告げたまはく「汝維摩詰に行詣して問疾すべし」と。阿難白佛言「世尊。我彼に詣て問疾するに堪任へず。所以者何。憶念するに昔時、世尊の身に小し疾あり、當に牛乳を用んとす。我即ち持鉢して大婆羅門家に詣りて門下に立つ。時に維摩詰、來りて我に謂ひて言く「唯阿難、何んぞ晨朝に持鉢して此に住するや」と。我言「居士よ、世尊の身に小しく疾有り、當に牛乳を用ひんとす。故に來りて此に至る」と。維摩詰言「止ね止ね阿難、是の語を作すこと莫れ。如來の身は金剛之體なり。諸惡已に斷じて衆善普く會す。當に何の疾有るべき。當に何の惱かあるべき。默して往け阿難、如来を謗することなかれ。異人をして此の麁言を聞かしむること莫れ。大威徳諸天及び他方淨土の諸來菩薩をして斯の語を聞かしむること無かれ。阿難、轉輪聖王すら少福を以ての故に尚ほ無病を得る。豈に況んや如來は無量の福會、普く勝れたまへる者なるを哉。行け阿難、我等をして斯の恥を受けしむること勿れ。外道梵志、若し此の語を聞かば當に是の念を作すべし。『何ぞ名けて師と爲さんや。自の疾すら能く救ふ能はず、而して能く諸疾を救はんや』と。仁よ密かに速かに去るべし。人をして聞かしむること勿れ。當に知るべし阿難。諸如來の身は即ち是れ法身にして思欲の身に非ず。佛は世尊なり、三界に過ぎたり。佛身は無漏なり、諸漏已に盡きたり。佛身は

無爲なり。諸數に堕せず。此之身の如き、當に何の疾は有るべきや。當に何の惱か有るべきや」と。時に我、世尊、實に慚愧を懷く「佛に近ずきて謬りて聽ことなきを得ん耶」と。即ち空中の聲を聞くに曰「阿難。居士の言の如し。但だ佛は五濁惡世に出て現に斯法を行じて衆生を度脱せんが為なり。行け阿難、乳を取りて慚ること勿れ」と。世尊、維摩詰の智慧辯

才、此の若しと為す也。是の故に彼に詣でて問疾するにたへず」。如是に五百大弟子、各各佛に向ひて其の本縁を説き、維摩詰所言を稱述して皆曰く、「彼に詣でて問疾するにたへず」と。(終わり)

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