彼岸の日迎え日送り
五來重の「宗教歳時記」から関連部分を抜き書きします。「・・彼岸の七日間の間に「日の供」とか「日迎え日送り」をする行事は丹後や播磨に良く残っていた。村人は朝は東の方のお宮やお寺・お堂に参り、日中は南の方のお宮やお寺・お堂、夕方は西の方のお宮・お寺・お堂に参るのである。これによって農耕の安全を祈るとともに、これを節目として祖先の霊を祀るところから墓参や念仏に結びつきやすかったとおもう。‥関東の方の村には村の東に朝日堂、西に夕日堂と呼ぶお堂を持つところがある。いまは彼岸の間百万遍の念仏で大きな数珠を回したり、交代で「撞木置かず」の不断念仏をする。(五來重は他の場所で「鳶の輪の下に鉦打つ彼岸かな・大江丸 「俳懺悔」」の句も紹介していますがここでは僧侶が怠慢で今はこの句は当てはまらない、としています。)・・彼岸の「日の友」はまたいろいろな形で残されている。たとえば彼岸の間に一村なり数か村なりの三十三観音霊場や八十八か所霊場を巡礼する形もある。‥京都では仁和寺裏山の八十八所などは彼岸の間巡礼者でいっぱいになる。・・また春彼岸には「天道念仏」
(例えば秩父大日堂の天道念仏が秩父市役所のホームページに有ります。 )
も関東を中心に行われた。この念仏には節がついていて太鼓を叩き鉦を打ち、ときにはササラをすりならが踊る。いわゆる踊念仏である。・・そしてこの念仏の創始者は弘法大師であるとつたえる。・・高野聖たちがひろめた念仏に真言念仏というのがあり、大日如来は阿弥陀如来と同体であるという思想をもっていた。したがって真言を唱えることも念仏を唱えることもその功徳は同じであると主張する・・・。このように念仏というものは日本人の心のなかにふかく根を下ろしたのである。・・」
五來重の「宗教歳時記」から関連部分を抜き書きします。「・・彼岸の七日間の間に「日の供」とか「日迎え日送り」をする行事は丹後や播磨に良く残っていた。村人は朝は東の方のお宮やお寺・お堂に参り、日中は南の方のお宮やお寺・お堂、夕方は西の方のお宮・お寺・お堂に参るのである。これによって農耕の安全を祈るとともに、これを節目として祖先の霊を祀るところから墓参や念仏に結びつきやすかったとおもう。‥関東の方の村には村の東に朝日堂、西に夕日堂と呼ぶお堂を持つところがある。いまは彼岸の間百万遍の念仏で大きな数珠を回したり、交代で「撞木置かず」の不断念仏をする。(五來重は他の場所で「鳶の輪の下に鉦打つ彼岸かな・大江丸 「俳懺悔」」の句も紹介していますがここでは僧侶が怠慢で今はこの句は当てはまらない、としています。)・・彼岸の「日の友」はまたいろいろな形で残されている。たとえば彼岸の間に一村なり数か村なりの三十三観音霊場や八十八か所霊場を巡礼する形もある。‥京都では仁和寺裏山の八十八所などは彼岸の間巡礼者でいっぱいになる。・・また春彼岸には「天道念仏」
(例えば秩父大日堂の天道念仏が秩父市役所のホームページに有ります。 )
も関東を中心に行われた。この念仏には節がついていて太鼓を叩き鉦を打ち、ときにはササラをすりならが踊る。いわゆる踊念仏である。・・そしてこの念仏の創始者は弘法大師であるとつたえる。・・高野聖たちがひろめた念仏に真言念仏というのがあり、大日如来は阿弥陀如来と同体であるという思想をもっていた。したがって真言を唱えることも念仏を唱えることもその功徳は同じであると主張する・・・。このように念仏というものは日本人の心のなかにふかく根を下ろしたのである。・・」