福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

東洋文化史における仏教の地位(高楠順次郎)・・その13

2020-09-18 | 法話
 こういうふうにシナでたくさん訳出されまして日本に伝えたのでありますが、それを日本に伝えたのはまだ印刷しない前の一切経は玄僧正が唐の玄宗皇帝の時開元時代の写本一切経五千四十八巻全部携えて還って来たのであります。これは非常な努力であったろうと思うのであります。それで天平八年に帰ってきました。五千四十八巻の一切経で聖武天皇に献上した。そして聖武天皇の願経というものがあります(聖武天皇勅願一切経、天平六年(734))が、朝廷からの特命で写さしめられた御経であります。この時のが日本に正式に一冊残らず全部渡って来た最初であると思います。これは玄僧正の将来であります。これが全一切経の根本になります。シナでは勅修――陛下が勅して拵えられる一切経、一切経を写すという事業が十五回ほど行われております。それから宋の太守の時初めて版にしました。即ち一切経は宋の時代になると翻訳時代は終って刊行時代となった。そして今までシナでは十四版までも刊行しました。朝鮮で二回、日本で今まで五回版にしております。
 それほどたくさん版にされた漢訳の一切経でありますが、それほど力を尽された本場のシナには漢訳の一切経が一版も完全には存していないといってよい。といってはあまりひどいのでありますが、明の一切経は或いは残っておるであろうと思います。清の竜蔵もあるべき筈である。西蔵の一切経、蒙古の一切経もある筈である、が責任をもって保存していないという意味で完全していないというのであります。しかし近頃私が一切経の中に出しました書物の中にも非常に良い書物がある。唐宋の時代の書物がシナで発見せられ朝鮮で発見せられたものもある。広いシナでありますから決してないということは申上げられませんけれども、まず全体として存していない。ところが日本には何れの時代の版も、朝鮮の版もシナの版も日本の版もみな完全に残っているのであります。これは大いにわれわれの誇りとすべきものであります。(奈良時代には一切経が記録だけで20回写経されているとされます。たとえば光明皇后の勅願一切経天平十二年(740)なども有名です。)
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