福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

フランス等のテロの続発を見てイスラム教と仏教の違いを考えました。

2015-01-11 | 法話
ついにフランス首都パリでもイスラム過激派のテロが起こりました。以前からイスラム過激派といわれる集団のテロが収まりません。イスラム過激派によるテロ事件は1980年前後からとぎれることなく続いています。1981年のエジプトのサダト大統領暗殺もそうでした。あれから30年以上にもなりますが9・11も含めて一向に収まる気配はありません。救いのない泥沼に世界中が取り込められている気がします。

この問題は中東諸国で選挙の時につかわれることば「世俗主義」対「イスラム原理主義」といったような切り口では解決できないと思われます。こういう切り口では「原理主義」のほうが力を得やすいのではないでしょうか。先進国ではいまは「世俗主義」が優勢ですがこうしてイスラム教等の原理主義がはびこってくると世俗主義は以外ともろいと思います。背骨がないからです。背骨のみの「原理主義」と肉(世俗的価値)のみの「世俗主義」が対峙すれば世俗主義に勝ち目はありません。お金とか地位とかの世俗的価値の恩恵に浴することのできるのはほんの一握りの人たちだけだからです。これから世界経済は永遠に量的拡大をとげることはできません、その中で必然的に格差は広がります。このとき必ずこの「原理主義」(共産主義もかってこのひとつでした)が台頭します。このままでは世界は大変な負のスパイラルに加速度的に入っていくことになります。

ここで一律に「宗教は問題である」といわずに、「普遍」宗教かどうかがいま問われなければならないと思います。
世界を「敵」と「味方」、「自分」と「他者」に分断する教えは当然「普遍」宗教とは言えません。
それどころか宗教とすらいえないと思います。それは「敵」「他者」を救えないからです。
イスラム教もキリスト教も仏教もひとまとめにして「世界宗教」といわれることがありますがそれは単に世界的に信者がいるということだけを指しているのにすぎません。

最近仏教のみが「自他」を救うことのできる普遍性をもつ本当の「普遍宗教」、その意味で「世界宗教」であるのではないかと思っています。最近のテロ事件の頻発を見てもつくずくその思いを強くします。

大般涅槃経には有名な「一切衆生悉有仏性」とでてきます。すべてのものが「仏性」を持つというのです。これを、道元禅師は「正法眼蔵」で「一切は衆生であり、全存在が仏性である」とまでされています。異教徒はもちろん、動植物・さらには無生物まですべてが仏性そのものであるというのです。(ただ仏性は、発心し、修行し、菩提し、涅槃してはじめてあらわれる、とされるのですが・・・)ここには「他宗」「自・他」などという狭量な考えなど毛筋ほども入り込む余地はありません。

こういう意味で唯一、「普遍的教え」を奉ずる仏教徒たるものは今や「世界史的」使命を負っているのではないかと思うこのごろです。
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