福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・14

2017-05-27 | 法話

但し、真諦に三千の差相を見るや否やは、支那宋朝における此宗の山家山外の間に論ぜられたる教学上の重要なる問題であった(真理(心)の中に個別現象を含むや否やは宋時代の天台宗で山家派と山外派として論争になった)。即ち山外にては、理平等の真諦界中に三千の差別の法を立てず、三諦についていへば(空諦・仮諦・中諦のうち)空・中を理(真理)とし、仮諦を事(仮諦をこの世にあらわれた仮の姿)とし、仮諦なる事に三千の差相を具するも、空中の理に三千の差相を具せずと説くに対し(山外派は真理(心)には様々な個別現象はない、とする)、山家には平等の理にも差別の事を具し、差別の事にも平等の理を具することを明かす(山家派は真理(心)の中にも個別現象があり、個別現象も真理をあらわすとする)。山家の四明智禮の十不二門指要鈔に曰「他宗明一理隨縁作差別法(山家派は真理が縁に遇って個々の現象を生み出すとする)。差別是無明之相。淳一是眞如之相(個々の事象は迷いの姿であるり真理の世界は一つであるとする)。隨縁時則有差別。不隨縁時則無差別(縁に従うときに差別となり縁をはなれれば真理に戻るとする)。故知一性與無明合方有差別(ゆえに真理と迷いが出会うときに個別事象があらわれるとする)。正是合義非體不二。以除無明無差別故。今家明三千之體隨縁起三千之用。不隨縁時三千宛爾。故差別法與體不二。以除無明有差別故(山家派は現象世界も真理を顕すとする、故に無明を除いても現象は真理としてある)。」

真諦に三千の差相を見ざる山外の説は、これ真如縁起(一切万有は一つの真理からの縁に従って顕現するという考え方。如来蔵縁起)を明かす起信論等の説に相似せるものである。即ち一味平等の真如の理体が、無明の薫習を受け、真如と無明と和合して生起せしものは差別の萬法なるがゆえに、始覚智(修業して得る生じ覚り。対して本来持っている覚りの智慧を本覚という)無明を断ずるときは、縁起俗諦の差相自ら滅亡し、平等一味の真如の理に帰することとなるも、山家は真如の理体に本来平等の法を円具し、その三千の理を全うして隋縁縁起せしもの俗諦の差相なりとす、かく真諦真如界中には不随縁のときも法爾として三千の差相宛然たるが故に、始覚生じ、無明を除くも、真如の体に法爾無作の三千の法を見んとするものである。

かかる山家山外の説の分る因由については、詳述を要すべきものあるも、これを所依の経典たる法華経についていへば、山家山外共に法華経の諸法実相の妙旨(すべての存在に普遍的に存する,時間や空間を超越した絶対的真実)を開顕せんとするはは一なるも、山外は華厳の唯心義より諸法実相を解せんとし、山家は色心の差相法爾として並べ存し而も無自生にして法々相隔つるところなきが故に互いに融摂し諸法本来三千円具の実相の体なり、と見る相違に基くものである。

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