福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・16

2017-05-27 | 霊魂論
ここに特記すべきことは、支那においては實相家にも縁起家にも一即一切、一切即一の円融無碍の理趣が開顕せられたることである。即ち円融無碍の理より諸法実相の義を明かすものは天台にして(一切のものは空であり同時にそのまま真理のあらわれ(実相)である)、重々無尽の玄旨より真如縁起(一切は真如が縁に遇って顕現する)を談ずるものは華厳宗である。

この円融無碍、重々無尽の玄旨よりいへば、一切世界の差別相は各々その當相を動ぜず、各々に法界を摂尽し各々法界の主である、かかる秘義は支那における大乗教によって宣明せられたるものである。

即ち印度における龍樹菩薩の諸法実相観は般若経に依れるものにして、差別相を虚妄不真実と否定し去り、その本性空を実相の體として観んとするものであったが(龍樹は中論においてすべてを否定し去りつくしたがその奥に真理があるとした)、智者大師の諸法実相観は法華経の教旨に依れるものである。法華経は諸法実相の理を説き、二乗凡夫の作佛を明かすを正意とし治世産業も実相となし、一切世界の差別相を即純一実相と開会せんとするものである。

智者大師は慧雲禅師より法華三昧を傳へ、苦錬修行遂に法華三昧を発得したもうた。智者大師の発得せる三昧は、所謂天真独朗、智者大師の己心中心行の法門にして、前代未聞なることは、摩訶止観の初めに記述せられたる如くである(摩訶止観の初めに「止観は明静なり。前代未だ聞かず。智者、大隋の開皇十四年四月二十六日より、荊州の玉泉寺において、一夏に敷揚し、二時に慈霔す。 楽説窮まらずといえども、わずかに見境にいたりて法輪転ずることを停め、後分を宣べず。しかるに流れを浥んで、源を尋ね、香を聞きて根を討ぬ。論にいわく「わが行は師保なし」と。経にいわく「莂を定光に受く」と。書にいわく「生まれながらにして知る者は上なり、学ぶは次によし。法門浩妙なり、天真独朗とやせん、藍よりして而かも青しとやせん。行人、もし付法蔵を聞かば、すなわち宗元を識らん。・・」とある)。即ち智者自らは龍樹に帰命し、龍樹を祖とすと称すも、龍樹の実相観といかに径庭あるかは智者の実相観を観れば自から知らるることである。
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