「冥の照覧」
愚迷発心集(解脱上人)に「「自ら人目を慎むといえども全く冥の照覧を忘る。まれに一善を勧むといえども多く名聞の思いに穢さる」とは、冥は仏陀諸天善神を指す。たとえば明らかなる處より闇に臨まば見ること能わず、冥所はよく明らかなるを照見するがごとし。凡夫は幽冥の境を見ず、幽義は能く凡夫をみそなわしたまふ。これを照覧といふ。夫れ、もの皆微なるより大なるはなく、隠れたるより顕なるはなし。・・太上感応篇にいわく「善悪の報は影の形に随うが如し、このゆえに人心善に起これば、善いまだなさざれども吉神これに随い、あるいは心に悪おこれば、悪いまだ為さずといえども凶神これに随う。」・・玄帝の垂訓にいわく「人間の私語、天聞くこと雷の如し、・・・」
(どんなに「業苦」の真っ最中でも悪心を起こしてはなりません。悪心には凶神が来るというのですから。兎に角、淡々と毎日を送っていくほかありません。十善戒で「不邪見戒」が最も大切される理由はこうしたことからもわかります。邪見を起こした途端に凶神に取りつかれるわけですから。)