行基菩薩は続日本紀等によると、天智天皇7年(668年)に生まれ 天平21年2月2日(749年2月23日)に遷化されたとされます。
1,「続日本紀・天平勝宝元年」には「二月丁酉(二日)、大僧正行基和尚遷化す。和尚は薬師寺の僧なり。俗性は高志氏、和泉の國の人也。和尚は真粋天挺、徳風夙に彰れたり。初め出家せし時瑜伽唯識を読みて即ち其の意を了しぬ。既にして都鄙に周遊して衆生を教化す。道俗化を慕ひて追従せる者、動もすれば千を以て数ふ。而して行く處和尚の来るを聞けば巷に居人無く争ひ来て禮拝す。器に随ひて誘導し咸に善に赴しむ。又親から弟子等を率し諸の要塞に処に於いて橋を造り陂を築かしむ。聞見の及ぶ所、咸来りて功を加ふ。不日にして成りぬ。百姓今に至り其の利を蒙れり焉。豊櫻彦の天皇(聖武天皇・天璽国押開豊桜彦天皇あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、甚だ敬重し玉ふ焉。詔して大僧正位を授け幷に四百人の出家を施す。和尚、霊異神験、類に觸れて多し。時の人、號して行基菩薩と曰ふ。留止する所には皆道場を建つ。其の畿内には凡そ四十九処、諸道にも亦往々而有り。弟子相継ぎて皆遺法を守り今に至って住持す焉。薨ずる時歳八十。」
2,日本霊異記巻七にも「・・然るに(行基)菩薩、機に感じ縁盡きて天平廿一年己丑春二月二日丁酉時を以て法儀を生馬山に捨て、慈神は彼の金宮に遷る也。・・」とあります。
3,私度僧で民衆から大変慕われ朝廷からは度々弾圧されましたが、道場や寺だけでなく、溜池15窪、架橋6所、困窮者のための布施屋等の社会事業をなしとげました。その後、大僧正として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘されています。
4,行基菩薩の歌として、拾遺集に「天竺より東大寺供養にあひに、菩提がなぎさに来つきたりける時よめる (菩提僊那僧正が天平勝宝四年(752)の東大寺開眼供養会に出仕すべく天竺から難波津の渚にこられた時に読んだ歌)
霊山の釈迦のみまへに契りてし真如くちせずあひみつるかな(拾遺)
【訳】霊山の説法の時、釈迦の御前で再会を誓った約束が破られることなく、また逢うことができた。真如はいつの世をも一貫して貫いているのだ。
【本歌取りの歌】
霊山の釈迦のみ前に契りてしことな忘れそ世はへだつとも(良寛)」とあります。