福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

井筒俊彦の大師論その2

2013-11-25 | 法話
このように真言密教の言語哲学を、意味分節理論との関連において理解しようとするのであるからには、まず何を措いても意味分節理論なるものを略述するのが順序であろうが、しかしそれに先立って、真言密教そのものの側にちょっと考えておかなければならないことがある。それは、真言密教が本来的、第一義的に問題とするコトバというものが、我々の普通に理解している言語とは違って、いわばそれを一段高いレベルに移したもの、つまり異次元の言語であるということである。
 そのことの一つの証拠として、私は空海の説く「果分可説」の理念を考える。「果分可説」とは、空海が『弁顕密二教論』のなかで、密教を、すべての顕教から区別する決定的な目じるしとして挙げている重要な思想である。「果分」とは、通俗的な説明では、仏さまがたの悟りの内実ということ。より哲学的なコトバで言えば、意識と存在の究極的絶対性の領域、絶対超越の次元である。コトバの表現能力との関連において、普通、仏教では、この次元での体験的事態を、「言語道断」とか「言亡慮絶」とかいう。つまり、コトバの彼方、コトバを越えた世界、人間のコトバをもってしては叙述することもできない形而上的体験の世界である、とうのだ。
 このような顕教的言語観に反対して空海は「果分可説」を説き、それを真言密教の標識とする。すなわち、コトバを絶対的に越えた(と、顕教が考える)事態を、(密教では)コトバで語ることができる、あるいは、そのような力をもったコトバが、密教的体験としては成立し得る、という。この見地からすれば、従って、「果分」という絶対意識・絶対存在の領域は、本来的に無言、沈黙の世界ではなくて、この領域にはこの領域なりの、つまり異次元の、コトバが働いている、あるいは働き得る、ということである。


 仏教に限らず、およそ止観的、瞑想的、ヨーガ的な方法による意識の機能次元の転換を事とする精神的伝統の人々は、事実、「コトバの彼方」「言詮不及」をしばしば口にする。東洋だけではない。西洋でも、ネオ・プラトニズム以来の、いわゆる神秘主義的伝統では、コトバを超えた体験ということが、ほとんど常識として語られる。たしかに、言語脱落は瞑想的体験の極限的事態であるように思われる。瞑想意識の極所、一切のコトバは脱落し、すべては深々たる沈黙の底に沈みこむ。
 だが、真言密教は、たやすくこのような見方を肯定しない。そこに「果分可説」的立場の特異性がある。悟りの境地はコトバにならないと主張して止まぬ通説に対して、悟りの境地を言語化することを可能にする異次元のコトバの働きを、それは説く。コトバを超えた世界が、自らコトバを語る、と言ってもいい。あるいはまた、コトバを超えた世界が、実は、それ自体、コトバなのである、とも。
 注意すべきは、悟りの境地を言語化するといっても、人間が人為的に言語化するというのではないことだ。むしろ、悟りの世界そのものの自己言語化のプロセスとしてのコトバを考えているのである。そしてそのプロセスが、また同時に存在世界現出のプロセスでもある、と。このようなレベルで、このような形で、コトバと存在とを根源的に同定する。これが真言密教的言語論の根本的な特徴である。だから、この立場では、最初に掲げた「存在はコトバである」という命題が、そのまま何の問題もなく成立することは当然でなければならない。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 先日のウズベキスタンの日本... | トップ | Nさんが昨日の坂東の記録を... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

法話」カテゴリの最新記事