福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

坂東観音霊場記(亮盛)・・・26/31

2023-08-26 | 先祖供養

 

第二十八番下総滑河(現在も第28番は滑河山龍正院(滑河観音))

総之下州楫取郡滑河山龍正院は、往古此の地の領主

小田宰相将治之開基、伽藍締構の制は慈覺大師の上足、修圓法師の功也。本尊十一面の像は常総の境川(小田川と云)朝日の淵より出現也。長一寸二分、龍宮の鋳造にして閻浮檀金の聖容也。後に法橋定朝丈二尺の像を彫み、将治感得の小躯を以て、新像の胸間に収め奉る焉。按ずるに定朝は人王五十八代光孝天皇六世の孫、自ら好て佛工を能くす。六十四代圓融院の御宇、天録二年、法橋の位を賜ふ。是佛工位階の始め也。慶運慶湛慶等、皆定朝を以て元祖と為す。湛慶が子孫相続て、今佛工の嫡流と為る也(和三才圖)。

當寺本尊出現の来由は、當時仁明帝の御宇、承和五年戊午の夏、炎暑の時候倏ち變じ、気寒日に増して厳冬の如し。霜降水凍りて老幼寒へ、山野に雪積りて艸木凋む。古稀の人だも未聞の凶歳にして、百穀皆種を失ふに至る。民家日を逐て衣食乏く、鰥寡孤独は餓死する者あり。茲に當地の領主小田宰相将治は素より仁義の君子にして,恒に人を憐の情厚し。特に慈覚大師の法門に入り深く三宝皈依し人あんれば、斯く民家の天災に罹り、老若の餓死を見に忍びず、九穀を出して施行を布、倉庫を傾て金銭を散せども、尚扶助の力普く及ず。惟に浸食を忘れ肺肝を砕く。若し夫れ人力に不能事は佛神の冥助を請ふの外なし。嘗て聞、妙法蓮華経は法王髻中の如意寶珠にて、世に萬寶を雨らす

の徳ありと。願くは此の經力勝能を以て民家の為に災悪を除かんと。新に壹宇の浄室を構へ、法華千部の講會を設く、同く廿八部の頓寫を行ず(廿八部の如法行は願主有意乎。經は二十八品、観音眷属は廿八部衆。今又札所の廿八番目也。右法華修行の地を今妙典村と云)。此の大法會の満日に至り、異相の小女忽然と現じ、宰相将治の前に立てり。将治是を怪み見て女姓は何人なりと問ば、小女答て、我は朝日前と云。汝民の為に家財を盡し、我身を忘れて他を恵む。實に世間の仁君子。佛家に取りては菩薩の行なり。我今汝が志願を助けんと、遥かの海底を凌来たれり(補陀洛山乎。又は龍宮界乎)。此の地の小田川の淵より、乳色の霊水涌出る、汲み與へて民家の患を避けよと。立去って小田川の方へ走行ける。将治跡を逐て河岸に至るに、忽ち女姓の行方を失ふ。然所に八十有余の老僧一人舟に乗って河岸に居玉ふ。時に老僧将治に告て云く、閻浮檀金の大悲の像、今此の小田川の淵より出玉ふ。汝至心に此像を持念せば、所願必ず成満すべし。且、此の淵より涌出る甘露の乳水を嘗めよ、と。倏ち舟も老僧も見へず。是に於いて将治思案(おもへらく)、先の小女も今の老僧も、同じく大悲の化現ならんと、感涙を流して尊像を拝し、又涌出る乳水を掬するに、其の甘味、世に譬ふべき物なし。試に枯れたる艸木に注げば、仍に凋葉緑の色を出す。即ち民家に教へ汲與るに、飢たる者は気力を復し、死したる者は

蘇生。斯て将治一宇の香堂を建、小田川出現の像を安置す。是滑河寺の濫觴なり。大悲深重の方便と。将治仁愛の徳行と感応同交の靈場なり。澍甘露法雨滅除煩悩焔於苦悩死疫能為作依怙の金文、今誰か仰信せざらん。貴い哉此の事也。

按ずるに滑河の字義詳らかならず。或人云、本は嘗の字なり。昔観世音僧と化、舩に乗て小田川に在。即ち将治に教て曰、此の淵より白乳沸出る。汝此の霊水を嘗めて所願を遂げよろ。即ち諸人河の霊水を嘗めて飢渇を免れける。因て嘗河と名くるなり。訓の似たるを以て後に滑河と書る乎。又和俗に朝をけさと云、朝日前の化失たるは此の小田川の岸なれば、土人朝日の淵と云。

人王四十四代元正帝の御寓、靈亀二年丁巳、美濃國の民、老母に孝行にして、毎日薪を賣り酒を買ひ、母に飲ましむ。冬一日雪積り酒錢なし。母酒に飢え、子歎き川に望む。則ち其の水酒の香有り。試に之を飲むに即ち酒也。母喜んで之を飲み、須臾にして老を變じて、白髪忽ち黒色と成る。終に酒の泉となり、一家富り。而して後、國人奏聞す。帝行幸して叡覧あり。孝子をして當國の國司に任ぜしめ、靈亀三年を養老元年と改む也(日本書紀)。爾雅註疏(中国前漢頃にまとめられた字義分類の字書『爾雅』に対する注疏。18世紀)に曰、援神契に曰、王者の徳、天に及べば斗極明かに日月光を増し、甘露降る。徳深泉に至れば黄龍見(あらは)れ醴泉沸と。東観記に云、光武中元元年に醴泉出る。京師の人是を飲んで痼疾を除くと。天台の次第禅門に云、甘露醍醐は不老不死の藥也と。大日経疏に云、鑁字より水輪を生ず、白乳の如しと云々。

周の穆王の近士に慈童と云る少年あり、過て王の枕を跨て、其罪死刑にあたる。王哀み死刑を宥めて遠く深山へ流す。時に王、慮計玉はく、世財を與へては賊難ありと。普門品の偈を授玉ふ(具一切功徳慈眼視衆生福聚海無量是故應頂禮)慈童徹縣山に至て、日夜専信に此の偈を唱ふ。虎狼野干の猛獣も馴伏して更に怖畏なく、後には諸の菓を含来り。其意慰諭するが如し。山に居すること七百年余歳にして顔色童形を改めず。其の谿の辺に多く菊を生ず。秋に至って花香盛なり。慈童此の花を愛して常に此の偈頌を唱ふ。此の故に人稱して菊慈童と云。菊に觸雨露谷に注ぎ流れて南陽縣に至る。南陽の民此の流れを飲む故に身に病なく長壽を保と。素此の偈頌の所由は、嘗て穆王駿馬に乗て、徧く八極を遊覧し玉ふ。然るに不計して靈山に至り、釈迦如来の説法を聴聞し

玉ふ。其の時、佛彼の穆王の為に漢語を以て此の偈を示玉ふと。仍って是を直説の漢語と云。尒来り此を王位の寶として曽て餘人の不知しを、後に彭祖仙人世に弘るとぞ。彭祖仙人は即ち菊慈童なり。法華直談抄、普門品抄等に見たり。列仙傳に、彭祖あり。齢と名とは同ふて時代大いに差ふ。未審。

巡礼詠歌「涌出る 藥の水をなめがはの 淵に誓の舩ぞうかべる」此の歌は小田川の朝日が淵より、白乳の霊水涌出て、飢民の患を救し事なり。飢たるを飽しめ、死するを蘇せしは、最も藥水と稱すべし。縁起に亘て句意自得ん。藥を服するを嘗ると言う、今此の地名に云掛けるる也。當境常念佛堂の原(はじめ)は、観世音出現十三年の後人王五十五代文徳帝の御宇仁壽三酉の夏の始行なり。此の称名三昧の法則は𦾔慈覚大師大唐に入り遍く五臺山を順礼の中臺にて文殊菩薩に値ひ、文殊より直傳の浄行なり(元亨釈書)。大師皈朝して門徒に授く。修圓是を傳へて大原に行ひ、又弘通の為に関東へ下り、當國に至て法憧を建、化導大に行はれれる。将治元より三宝に皈すれば、修圓法師の行門に入、滑川寺の蓮刹に就て、新に常行三昧堂を構、修圓師を導師に請じて、所領の老若男女を集め、家臣の致士する者をして晝夜交代して修行せしむ。此の法、永く繫榮の為に香取の一郡を割て、四十八箇の村と成、弥陀の本願に擬せしとぞ。

昔上総國武射(むさ)郡の人、売買の為に奥州へ渡り、交易して本國へ皈るに、其の絹沙金等を見入り、途中に盗賊在て逐来るに、商人怖れ周章て逃のき、滿漫たる大河の岸に出る。渉るべきに橋もなく、又舟もなし。迷惑して河岸に踟躇(たちもとををる)。忽ち二人舟に乗来り、兎角の言なく其の舟に喚入る。飛が如く向の岸へ漕送る。商人危き横難を遯れ、岸に上がり歎息して見に、其の舟もなく又人も見へず。餘り不思議の事なれば、其辺の柴の戸を叩、悉に事の由を語るに、主の老農夫出て曰、此邊は曽て舟なし。爰に滑河山と云霊場あり。掲焉(あらた)なる観世地蔵立せ玉ふ。有信の人には、必ず霊験あり。今其旅人を渡玉ふは定て彼の両尊に在やと。商人聞て餘の叵有(ありがた)さに家業を棄て皈國もせず、滑川寺に寄寓して終に剃髪して浄行を勤めて後に念佛堂司と成。此の地に終焉を遂しとぞ。于今、舟越の観音、舟越の地蔵と称するは、斯る不思議の所以なり。怖畏急難の所に臨み能く為に無畏を施し商人重寶を斎持して将に険路を經過する時、怨賊有て恐怖を生ずるに、至心に大悲の名を唱れば、忽ち苦を脱き安穏を得ると云。金文實に不空をや。感通傳に云、海塩と云者、水に溺ること有り、同伴皆沈む。此人、観音を称し、困倦して眠るが如し。夢に両人舟に乗り、喚入と見る。眼を開けて果し見るに舩人有りて岸に送達す。復人と舩とを見ず。此の人、沙門と為り大精進すと。私に云、東寺一家の傳には、観音を以て一切慈悲の主尊と為す。他門には地蔵を以て慈悲主と為す。今謂く、観音慈悲の至極を以て地蔵と為す故に、此の故に観音部の中には多く地蔵尊あり。法華経普門品の中に持地菩薩を出す、此の菩薩則ち地蔵菩薩也、大日経疏、安雲傳。

 

 

 

 

 

 

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