努力の堆積
人間の所爲を種々に分類すれば、隨分多數に分類し得る。そして其の所爲の價値に幾干と無い階級も有らうが、努力といふことは確に其の高貴なる部分に屬するものである。頃者このごろ世に行はれて居る言葉に奮鬪と云ふ言葉があつて、努力と稍や近似の意味を表はして居るが、これは假想の敵がある樣な場合に適當するもので、努力は我が敵の有無に拘らず、自己の最良を盡して而して或事に勉勵する意味で、奮鬪と云ふ言葉が有する感情意義よりは、高大で、中正で、明白で、人間の眞面目な意義を發揮して居る。元來一切の世界の文明は、此の努力の二字に根ざして其處から芽を發し、枝をつけ、葉を生じ、花を開くのであると云はねばならぬ。
併し努力に比して、丁度其の相手の如く見ゆるものがある。其れは好んで爲すことである。好んで爲すと云ふ事である。努力は厭な事をも忍んで爲し、苦しい思ひにも堪へて、而して勞に服し事に當ると云ふ意味である。が、嗜好と云ふ場合には、苦しい事も打ち忘れ、厭ふと云ふ感情も全く無くて、即ち意志と感情とが竝行線的、若しくは同一線的に働いて居る場合を云ふのである。努力は其れと稍や違つた意味を有し、意志と感情とが相あひ忤ごし戻つて居る場合でも、意識の火を燃え立たせて、感情の水に負けぬやうに爲し、そして熱して/\已まぬのを云ふのである。
或人が或事に從來し、而して其の人が我知らず自己の全力を其處に沒して事に當ると云ふ場合、其れは努力と云ふよりは好んで爲すと云つた方が適當である。其處で、世界の文明は、努力から生じて居る歟、好んで之れを爲す處から生じて居る歟と云へば、努力から生じて居る如く見える場合も、嗜好から生じて居るが如く見える場合もある。例へば文明の恩人、即ち各時代の俊秀なる人物が、或事業の爲に働いて、其の徳澤を後世に遺した場合を考へて見るに、努力の結果の如く見ゆる場合もあり、又、好んで爲した結果の如く見ゆる場合もある。これは人々の觀察、解釋、批評の仕方に因つて何方どちらにも取れる。が正當に之れを解釋して見たならば、好んで爲す場合にも、努力が伴はぬ時は其の進行は廢絶せざるを得ない。然らずとするも其の結果の偉大を期する事は出來ない。パリツシーの陶器製造に於けるも、コロンブスの新地發見に於けるも、皆さうである。如何に好んで爲すと云つても、例へば有福の人が園藝に從事する場合に就いても或時は確に其れは苦痛を感ぜしめよう。則ち酷寒酷暑に於ける從事、或は蟲害其の他に就ての繁雜なる手數、緻密なる觀察、時間的不規律な勞働に服するなどの種々の場合に、努力によらなければ、中途にして歇むの状態に立ち至ることもまゝある道理で、換言すれば好んで爲すと云つても、其の間に好まざる事情が生ずるのは人生に有り勝な事實である。其の好ましからぬ場合が生じた時に、自己の感情に打ち克ち、其の目的の遂行を專らにするのが、即ち努力である。
人生の事と云ふものは、座敷で道中雙六をして、花の都に到達する如きものではない。眞實ほんとうの旅行にして見れば、旅行を好むにして見ても、尚且つ風雪の惱みあり、峻坂嶮路の艱あり、或時は磯路に阻まれ、或時は九折つゞらをりの山逕に、白雲を分け、青苔に滑る等、種々なる艱苦を忍ばねばならぬ。即ち其處に明らかに努力を要する。若し一路坦々砥の如く、而も春風に吹かれ、良馬に跨つて旅行するならば、努力は無い樣なものの、全部の旅行がさうばかりは行かぬ。如何に財に富み、地位に於いて高くとも、天の時、地の状態等に因つて、相當の困苦艱難に遭遇するのは、旅行の免れない處である。
されば如何に之れを好む力が猛烈で、而して之を爲すの才能が卓越して居ても、徹頭徹尾、好適の感情を以て、或事業を遂行する事は、殆ど人生の實際にはあり得ない。種々なる障礙、或は蹉躓の伴ふ事は、已むを得ない事實である。而して其れを押し切つて進むのは其の人の努力に俟つより他はない。周公、孔子の如き聖人、ナポレオン、アレキサンドルの如き英雄、或はニユートン、コペルニカスの如き學者であらうとも、皆其の努力に因つて其の事業に光彩を添へ、黽勉びんべんに因つて大成して居る事實は、爰に呶々する迄もないことである。まして才乏しく、徳低き者にありては、努力は唯一の味方であると斷言して可いのである。恰も財力乏しく、地位亦低きの旅行者が、馬にも乘れず、車にも乘れず、只管ひたすら雙脚の力を頼むより他に山河跋渉の道なきと同樣である。
併し、俊秀な人の仕業を見ると、時には此の努力なくして出來た如く見ゆる場合もあるが、其れは皮相の觀察で、馬に乘つても雪の日は寒く、車に乘つても荒れたる驛路では難儀をする。如何に大才厚徳の士であつても、矢張り必ず安逸好適の状態のみを以て終始する事は出來ない。況や千里の駿馬は自らにして駑馬よりは多くを行き、大才厚徳の士は常人よりは人世の旅行を多くして、常人の到達し得ざる處に到達せんとするもの故、其の遭遇する各種の不快、不安、障礙蹉躓は、隨つて多いのであるから、其努力が常人を越えて居るのは云ふ迄もない。文明の恩人の傳記を繙き見るに、誰か努力の痕を留めない者があらう。殊に各種の發明者、若くは新説の唱道者、眞理の發見者等は、皆此の努力に因つて其の一代の事業を築き上げて居ると云はねばならぬ。東洋流の傳記や歴史で見ると、英才頓悟、若くは生れながらに智勇兼ね備はつて居たと云つたやうなものがあつて、俊秀な人は何事も容易に爲し得たかの如く書いてあるが、其れは寧ろ事實の眞を得ないものだと云はねばならぬ。又、縱よしんば英才の人が容易に或事を爲し得たとするも、其の英才は何れから來たか。これは其の人の系統上の前代の人々の『努力の堆積』が其の人の血液の中に宿つて、而して其の人が英才たる事を得たのである。
天才と云ふ言葉は、動もすると努力に因らずして得たる智識才能を指ゆびさすが如く解釋されてゐるのが、世俗の常になつて居る。が、其れは皮相の見たるを免れない。所謂天才なるものは、其の系統上に於ける先人の努力の堆積が然らしめた結果と見るのが至當である。美しい斑紋を持ち若しくは稀有なる畸形をなした萬年青おもとが生ずると數寄者は非常なる價値を認めるが、併し其の萬年青なるものを研究して見ると、決して偶然に生じたものではなく、矢張り其系統の中に其の高貴なる所以の原因を有つて居た事を發見する。草木にして然り、況や人間の稀有なる尊いものが忽然として生れる筈は無いのである。
盲人の指の感覺は其の文字を讀み得ざる紙幣に對しても、猶眞贋を辨別し得る程に鋭敏になつて居る。併し其の感覺力は偶然に得たものではなく、其の盲目の不便より生ずる缺陷を補はんとする努力の結果として、其の指頭の神經細胞の配布を緻密ならしめたので、換言すれば單に其の感覺が鋭敏なるのみではなく、解剖上に於ける神經分布の細密を來し、而して後に鋭敏なる感覺力を有するに至つたのである。則ち『機能』が卓越するといふばかりでなく、其の『器質』に變化を生じて、而して常人に卓越したものとなつたのである。是れ畢竟努力の絶えざる堆積は、旋やがて物質上にも變化を與ふる例證として認識するに足るではないか。
此の理に據つて歸納すれば、俊秀なる人の如きも、偶然に發した天賦の才能の所有者と云はんよりは、俊秀なる器質の遺傳、即ち不斷の努力の堆積の相續者、若くは煥發者と云ふ方が適當である。如斯かくのごときの説は、或は英雄聖賢の人に對して、其の徳を減ずるが如くにも聞えるが、實は然うでない。努力は人生の最大最善なる尊いもので、英雄聖賢は、其の不斷に努めた堆積の結果だといふのだから、英雄聖賢の光輝を揚ぐる所以だと思ふ。
野蠻人が算數に疎いと云ふのも、つまり算數に對する努力が、まだ堆積して居らぬからで、即ち代々の努力を基本として居らぬ者が、忽然として高等の數理を解釋し得よう道理がないから、そこで數學の高尚なる域に到達し難いと云ふ證例である。吾人は動もすると努力せずして或事を成さんとするが如き考へを持つが、其れは間違ひ切つた話で、努力より他に吾人の未來を善くするものはなく、努力より他に吾人の過去を美しくしたものはない。努力は即ち生活の充實である。努力は即ち各人自己の發展である。努力は即ち生の意義である。
人間の所爲を種々に分類すれば、隨分多數に分類し得る。そして其の所爲の價値に幾干と無い階級も有らうが、努力といふことは確に其の高貴なる部分に屬するものである。頃者このごろ世に行はれて居る言葉に奮鬪と云ふ言葉があつて、努力と稍や近似の意味を表はして居るが、これは假想の敵がある樣な場合に適當するもので、努力は我が敵の有無に拘らず、自己の最良を盡して而して或事に勉勵する意味で、奮鬪と云ふ言葉が有する感情意義よりは、高大で、中正で、明白で、人間の眞面目な意義を發揮して居る。元來一切の世界の文明は、此の努力の二字に根ざして其處から芽を發し、枝をつけ、葉を生じ、花を開くのであると云はねばならぬ。
併し努力に比して、丁度其の相手の如く見ゆるものがある。其れは好んで爲すことである。好んで爲すと云ふ事である。努力は厭な事をも忍んで爲し、苦しい思ひにも堪へて、而して勞に服し事に當ると云ふ意味である。が、嗜好と云ふ場合には、苦しい事も打ち忘れ、厭ふと云ふ感情も全く無くて、即ち意志と感情とが竝行線的、若しくは同一線的に働いて居る場合を云ふのである。努力は其れと稍や違つた意味を有し、意志と感情とが相あひ忤ごし戻つて居る場合でも、意識の火を燃え立たせて、感情の水に負けぬやうに爲し、そして熱して/\已まぬのを云ふのである。
或人が或事に從來し、而して其の人が我知らず自己の全力を其處に沒して事に當ると云ふ場合、其れは努力と云ふよりは好んで爲すと云つた方が適當である。其處で、世界の文明は、努力から生じて居る歟、好んで之れを爲す處から生じて居る歟と云へば、努力から生じて居る如く見える場合も、嗜好から生じて居るが如く見える場合もある。例へば文明の恩人、即ち各時代の俊秀なる人物が、或事業の爲に働いて、其の徳澤を後世に遺した場合を考へて見るに、努力の結果の如く見ゆる場合もあり、又、好んで爲した結果の如く見ゆる場合もある。これは人々の觀察、解釋、批評の仕方に因つて何方どちらにも取れる。が正當に之れを解釋して見たならば、好んで爲す場合にも、努力が伴はぬ時は其の進行は廢絶せざるを得ない。然らずとするも其の結果の偉大を期する事は出來ない。パリツシーの陶器製造に於けるも、コロンブスの新地發見に於けるも、皆さうである。如何に好んで爲すと云つても、例へば有福の人が園藝に從事する場合に就いても或時は確に其れは苦痛を感ぜしめよう。則ち酷寒酷暑に於ける從事、或は蟲害其の他に就ての繁雜なる手數、緻密なる觀察、時間的不規律な勞働に服するなどの種々の場合に、努力によらなければ、中途にして歇むの状態に立ち至ることもまゝある道理で、換言すれば好んで爲すと云つても、其の間に好まざる事情が生ずるのは人生に有り勝な事實である。其の好ましからぬ場合が生じた時に、自己の感情に打ち克ち、其の目的の遂行を專らにするのが、即ち努力である。
人生の事と云ふものは、座敷で道中雙六をして、花の都に到達する如きものではない。眞實ほんとうの旅行にして見れば、旅行を好むにして見ても、尚且つ風雪の惱みあり、峻坂嶮路の艱あり、或時は磯路に阻まれ、或時は九折つゞらをりの山逕に、白雲を分け、青苔に滑る等、種々なる艱苦を忍ばねばならぬ。即ち其處に明らかに努力を要する。若し一路坦々砥の如く、而も春風に吹かれ、良馬に跨つて旅行するならば、努力は無い樣なものの、全部の旅行がさうばかりは行かぬ。如何に財に富み、地位に於いて高くとも、天の時、地の状態等に因つて、相當の困苦艱難に遭遇するのは、旅行の免れない處である。
されば如何に之れを好む力が猛烈で、而して之を爲すの才能が卓越して居ても、徹頭徹尾、好適の感情を以て、或事業を遂行する事は、殆ど人生の實際にはあり得ない。種々なる障礙、或は蹉躓の伴ふ事は、已むを得ない事實である。而して其れを押し切つて進むのは其の人の努力に俟つより他はない。周公、孔子の如き聖人、ナポレオン、アレキサンドルの如き英雄、或はニユートン、コペルニカスの如き學者であらうとも、皆其の努力に因つて其の事業に光彩を添へ、黽勉びんべんに因つて大成して居る事實は、爰に呶々する迄もないことである。まして才乏しく、徳低き者にありては、努力は唯一の味方であると斷言して可いのである。恰も財力乏しく、地位亦低きの旅行者が、馬にも乘れず、車にも乘れず、只管ひたすら雙脚の力を頼むより他に山河跋渉の道なきと同樣である。
併し、俊秀な人の仕業を見ると、時には此の努力なくして出來た如く見ゆる場合もあるが、其れは皮相の觀察で、馬に乘つても雪の日は寒く、車に乘つても荒れたる驛路では難儀をする。如何に大才厚徳の士であつても、矢張り必ず安逸好適の状態のみを以て終始する事は出來ない。況や千里の駿馬は自らにして駑馬よりは多くを行き、大才厚徳の士は常人よりは人世の旅行を多くして、常人の到達し得ざる處に到達せんとするもの故、其の遭遇する各種の不快、不安、障礙蹉躓は、隨つて多いのであるから、其努力が常人を越えて居るのは云ふ迄もない。文明の恩人の傳記を繙き見るに、誰か努力の痕を留めない者があらう。殊に各種の發明者、若くは新説の唱道者、眞理の發見者等は、皆此の努力に因つて其の一代の事業を築き上げて居ると云はねばならぬ。東洋流の傳記や歴史で見ると、英才頓悟、若くは生れながらに智勇兼ね備はつて居たと云つたやうなものがあつて、俊秀な人は何事も容易に爲し得たかの如く書いてあるが、其れは寧ろ事實の眞を得ないものだと云はねばならぬ。又、縱よしんば英才の人が容易に或事を爲し得たとするも、其の英才は何れから來たか。これは其の人の系統上の前代の人々の『努力の堆積』が其の人の血液の中に宿つて、而して其の人が英才たる事を得たのである。
天才と云ふ言葉は、動もすると努力に因らずして得たる智識才能を指ゆびさすが如く解釋されてゐるのが、世俗の常になつて居る。が、其れは皮相の見たるを免れない。所謂天才なるものは、其の系統上に於ける先人の努力の堆積が然らしめた結果と見るのが至當である。美しい斑紋を持ち若しくは稀有なる畸形をなした萬年青おもとが生ずると數寄者は非常なる價値を認めるが、併し其の萬年青なるものを研究して見ると、決して偶然に生じたものではなく、矢張り其系統の中に其の高貴なる所以の原因を有つて居た事を發見する。草木にして然り、況や人間の稀有なる尊いものが忽然として生れる筈は無いのである。
盲人の指の感覺は其の文字を讀み得ざる紙幣に對しても、猶眞贋を辨別し得る程に鋭敏になつて居る。併し其の感覺力は偶然に得たものではなく、其の盲目の不便より生ずる缺陷を補はんとする努力の結果として、其の指頭の神經細胞の配布を緻密ならしめたので、換言すれば單に其の感覺が鋭敏なるのみではなく、解剖上に於ける神經分布の細密を來し、而して後に鋭敏なる感覺力を有するに至つたのである。則ち『機能』が卓越するといふばかりでなく、其の『器質』に變化を生じて、而して常人に卓越したものとなつたのである。是れ畢竟努力の絶えざる堆積は、旋やがて物質上にも變化を與ふる例證として認識するに足るではないか。
此の理に據つて歸納すれば、俊秀なる人の如きも、偶然に發した天賦の才能の所有者と云はんよりは、俊秀なる器質の遺傳、即ち不斷の努力の堆積の相續者、若くは煥發者と云ふ方が適當である。如斯かくのごときの説は、或は英雄聖賢の人に對して、其の徳を減ずるが如くにも聞えるが、實は然うでない。努力は人生の最大最善なる尊いもので、英雄聖賢は、其の不斷に努めた堆積の結果だといふのだから、英雄聖賢の光輝を揚ぐる所以だと思ふ。
野蠻人が算數に疎いと云ふのも、つまり算數に對する努力が、まだ堆積して居らぬからで、即ち代々の努力を基本として居らぬ者が、忽然として高等の數理を解釋し得よう道理がないから、そこで數學の高尚なる域に到達し難いと云ふ證例である。吾人は動もすると努力せずして或事を成さんとするが如き考へを持つが、其れは間違ひ切つた話で、努力より他に吾人の未來を善くするものはなく、努力より他に吾人の過去を美しくしたものはない。努力は即ち生活の充實である。努力は即ち各人自己の發展である。努力は即ち生の意義である。