福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

幸田露伴『努力論』その7

2013-10-07 | 法話
植福の説(幸福三説第三)

人皆有福の羨む可きを知つて、更に大に羨む可きもののあるのを知らない。人皆惜福の敢てす可きを知つて、更に大に敢てす可きもののあるのを知らない。人皆分福の學ぶ可きを知つて、更に大に學ぶ可きもののあるのを知らない。有福は羨む可からざるにあらず、しかも福を有するといふのは、放たれたる箭の天に向つて上る間の状態の如きものであつて、力盡くる時は下り落つるを免れざると均しく、福を致したる所以の力が盡きる時は、直に福を失ふのである。惜福は敢てすべからざるにあらず、而も福を惜むといふは、爐中の炭火を妄みだりに暴露せざるが如きものであつて、たとひ之を惜むこと至極するにせよ、新あらたに炭を加ふる有るにあらざれば、別に其の火勢火力の増殖する次第でも無い。分福の學ぶ可からざる事でないのは勿論である。しかも福を分つといふのは、紅熟せる美果を人と共に食ふが如きもので、食ひ了れば即ち空しいのである。人悦び我悦べば、其の時に於て一應は加減乘除が行はれて仕舞つた譯なのであつて、要は人の悦びを得たところが、我のみの悦びを得たのに比して優つて居るに止まるのである。有福、惜福、分福、いづれも皆好い事であるが、其等に優つて卓越してゐる好い事は植福といふ事である。
植福とは何であるかといふに、我が力や情や智を以て、人世に吉慶幸福となるべき物質や、清趣や、智識を寄與する事をいふのである。即ち人世の慶福を増進長育するところの行爲を植福といふのである。かくの如き行爲の尊む可きものであることは、常識ある者のおのづからにして理解して居ることであるが、遼豕(れうし)の謗を忘れて試みに之を説いて見よう。
予は單に植福と云つたが、植福の一の行爲は、自ら二重の意義を有し、二重の結果を生ずる。何を二重の意義、二重の結果といふかと云ふに、植福の一の行爲は、自己の福を植うることであると同時に、社會の福を植うることに當るから之を二重の意義を有するといひ、他日自己をして其の福を收穫せしむると同時に、社會をして同じく之を收穫せしむる事になるから、之を二重の結果を生ずると云ふのである。
今こゝに最も瑣細にして最も淺近な一例を示さうならば、人ありて其の庭上に一の大なる林檎の樹を有するとすれば、其の林檎が年々に花さき、年々に實りて、甘美清快なる味を供することは、慥に其の人をして幸福を感ぜしむるに相違無い。で、それは其の人が幸福を有するのであつて、即ち有福である。其の林檎の果實を浪みだりに多産ならしめないで、樹の堅實と健全繁榮とを保たしむるのは、即ち惜福である。豐大甘美な果實の出來たところで、自己のみが之を專にしないで親近朋友に頒つのは分福である。有福といふことには善も惡も無く可も否も無いが、惜福分福は皆嘉尚す可きことである。
此等の事は既に説いたところであるが、扨植福といふのは何樣どういふことかと云ふと、新に林檎の種子たねを播きて之を成木せしめんとするのが、植福である。同じ苗木を植付けて成木せしめんとするのが植福である。又惡木に良樹の穗を接ぎて、美果を實らしめんとするのも植福である。※(「虫+冴のつくり」、第4水準2-87-34)蠧がとの害に遇つて枯死に垂なんなんたる樹が有るとすれば、之を藥療して復活蘇生せしむるのも亦植福である。凡そ天地の生生化育の作用を贊たすけ、又は人畜の福利を増進するに適當するの事を爲すのが即ち植福である。
一株の林檎の樹といふ勿れ、一株の樹もまた數顆數十顆、乃至數百顆の實を結ぶのであつて、其の一顆よりは又數株乃至數十株の樹を生じ、果と樹は相交互循環しては、無量無邊の發生と産出とを爲すものである。故に一株の樹を植うる其事は甚だ微少瑣細であるけれども、其の事の中に包含されて居る將來は、甚だ久遠洪大なもので、其の久遠洪大の結果は、實に人の心念の機微に繋かゝつて居るものであつて、一心一念の善良なる働は、何程の福を將來に生ずるかも知れぬのである。一株の果樹は霜虐雪壓に堪へさへすれば、必ずや、或時間に於て無より有を生じ、地の水と天の光とを結んで、甘美芳香の果實を生じ出す。既に果實が生ずれば、必らずや之を味はふ人をして幸福を感ぜしむるので有つて、主人自ら之を味はふにせよ、主人の親近朋友が之を味はふにせよ、又は主人に賣卻せられて、或他の人が之を味はふにせよ、何人かが造物主の人間に贈るところの福惠を享受して、滿足怡悦いえつの情を湛ふるに相違無い。されば一株の樹を培養成長せしむるといふことは、瑣事には相違無いが、自己に取りても他人に取りても幸福利益の源頭となることである故に、之を福を植うると云つて誤は無いのである。
凡そ是の如く幸福利益の源頭となることを爲すをば植福といふのであるが、此の植福の精神や作業によつて世界は何程進歩するか知れず、又何程幸福となるかも知れないのである。若し人類にして植福の精神や作業が無いならば、人類は假令たとひ勇猛なるも、數千年の古より、今猶獅子熊の如き野獸と相伍して居なければなるまい。假令智慧あるも、今猶猿猴猩々の類と林を分ちて相棲まねばなるまい。假令社會組織を爲すの性あるも今猶蜂や蟻と其の生活を同じうせねばなるまい。幸にして吾人は數千年の昔時の祖先よりして、植福の精神に富み、植福の作業に服し從つた爲、一時代は一時代より幸福が増進し、祖先以來の勇氣によつて建設せられたる人類の權利は、他動物に卓絶し、祖先以來の智識を堆積し得て生じたる人類の便利は、他動物の到底及ばざる者となり、祖先以來の社會組織の經驗を累ね來つて、他動物には到底見る能はざるの複雜にして巧妙なる社會組織を有するに至つたのである。
農業は植福の精神や作業を體現したかの觀あるものであるが、實に其の種を播き、秧なへを※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)さしはさむの勞苦は、福神の權かりに化して人と現はれて、其の福の道を傳へんが爲に勞作する、と云つても宜い程のものである。工業も商業も亦然りで、苟も眞に自己の將來の幸福、又は他人の幸福の源頭となるものである以上は、之に從事する人は皆福を植うるの人である。
世に福を有せんことを希ふ人は甚だ多い。しかし福を有する人は少い。福を得て福を惜むことを知る人は少い。福を惜むことを知つても福を分つことを知る人は少い。福を分つことを知つても福を植うることを知る人は少い。蓋し稻を得んとすれば、稻を植うるに若くは無い。葡萄を得んとすれば、葡萄を植うるに若くは無い。此の道理を以て、福を得んとすれば福を植うるに若くは無い。しかるに人多くは福を植うるを以て迂闊の事として顧みない傾があるのは甚だ遺憾の事である。
樹を植うるを例としたから、復ふたゝび其の例に就いて言はうならば、既に一度樹を植ゑたる以上、必ず其の樹は其の人又は他人乃至國家に對して與ふるところが無くて已むものでは無いから、此の位植福の事例として明白な好き説明を爲すものは無い。即ち植ゑられたる福は、時々刻々に生長し、分々寸々に伸展して、少しも止むこと無く、天運星移と共に進み/\て、何時と無く増大し、何時と無く結果を擧ぐるものである。杉や松の大木は天を摩するものもある。併し其の種子たねは二指を以て撮みて餘り有るものである。植福の結果は非常に大なるものである。併し其の植ゑられたる福は甚だ微細なるものでも、不思議は無いのである。
渇したる人に一杯の水を與ふる位の事は、如何なる微力の人でも爲すことを得ることである。飢ゑたる人に一飯を振舞ふ位の事は、貧者も亦之を能くするを得る事である。併し世には是の如き微細なる事は抑※(二の字点、1-2-22)又何を値せんやと思ひ做して、之を爲さぬ人がある。但し其は明らかに誤りであつて、一撮ひとつかみに餘りある微少の種子たねより、摩天の大樹の生ずることを解したならば、其の瑣細なことも亦必らずしも瑣細なことで終るとは限らぬことを解するに足るであらう。自己が幸福を得ようと思つて他人に福惠を與ふるのは、善美を盡したものでは無いけれども、福は植ゑざる可からず、と覺悟して、植福の事に從ふのは、福を植ゑざるに勝ること、萬々である。一盞の水、一碗の飯、渇者飢者に取つては、抑も何程か幸福を感ずることであらう。
此の如きは福を植うるに於て最も末端の事では有るが、しかも亦決して小事では無い。人の飢渇に忍びざるの心よりして人の飢渇を救ふのは、即ち人の禽獸と異なる所以のものを發揮したので、是の如き人類の情懷の積り累なりて、人類の社會は今日の如く成立つて居るのである。他の疲憊困苦に乘じて、之を搏噬はくぜいするが如きは、野獸の所爲で有つて、是の如きの心を有せる野獸は、今猶野獸の生活を續けて居るのである。故に人の飢渇に同情するとせぬとの如きは、其の事小なるが如くなれども、野獸の社會とは異なる人類の今日の社會の出現するとせぬとに關する、と言つても可なる程、大なる徑庭の生ずるところの「幾微」の樞機がこれに存して居るのである。思はざる可けんやである。
今日の吾人は古代に比し、若くは原人に比して大なる幸福を有して居る。これは皆前人の植福の結果である。即ち好き林檎の樹を有して居るものは、好き林檎の樹を植ゑた人の惠を荷うて居るのである。既に前人の植福の庇陰に依る、吾人も亦植福の事をなして子孫に貽らざる可からずである。眞の文明といふことは、凡て或人々が福を植ゑた結果なのである。災禍といふことは、凡て或人々が福を・殘(しやうざん)した結果なのである。吾人は必ずしも自己の將來の福利に就いて判斷を下して、而して後に植福の工夫をなさずとも宜い。吾人は吾人が野獸たるを甘んぜざる、即ち野獸たる能はざる立場よりして福を植ゑたい。徳を積むのは人類の今日の幸福の源泉になつて居る。眞智識を積むのも亦人類の今日の幸福の源泉になつて居る。徳を積み智を積むことは、即ち大なる植福をうる所以であつて、樹を植ゑて福惠を來者に貽おくる如き比では無い。植福なる哉、植福なる哉、植福の工夫を能くするに於て始めて人は價値ありと云ふ可しである。
有福は祖先の庇陰に寄るので、尊む可きところは無い。惜福の工夫あるに至つて、人やゝ尚ぶ可しである。分福の工夫を能くするに至つて、人愈す尚ぶ可しである。能く福を植うるに至つて、人眞に敬愛すべき人たりと云ふ可しである。福を有する人は或は福を失ふことあらん。福を惜む人は蓋し福を保つを得ん。能く福を分つ人は蓋し福を致すを得ん。福を植うる人に至つては即ち福を造るのである。植福なる哉。植福なる哉。
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